民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

郡上おどり 清水

 

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郡上八幡

 岐阜のほぼ真ん中辺りに位置し、長良川の支流である吉田川を中心に町が広がる。職人町や鍛冶町など、かつて城下町だった旧い町並みが残る町内には、江戸時代に整備された水路がいくつも通り、飲用の湧き水スポットが点在していた。訪れた日は生憎の豪雨で、茶色く濁って荒々しい流れを見せていた吉田川も、穏やかな時は地元の子どもたちが泳いだり飛び込みをしたりできるくらい綺麗な川だそうだ。鎌倉から戦国時代、元は千葉を本拠地としていた東氏が承久の乱の功績により、この地域を与えられ治めるようになる。東氏は藤原定家に和歌を学び、二条流和歌を継承する歌人一家でもあった。古今伝授の創始者としても有名とのこと。そんな東氏を頼ってこの地を訪れた歌人宗祇が、出立の際別れを惜しんで歌を詠んだという場所が、宗祇水という湧き水スポットとして町の入り口に残っている。戦国末期、東氏が滅ぼされ遠藤氏が八幡城を築き、この地を治めるようになる。その後は戦乱や転封などにより、稲葉氏、井上氏、金森氏、青山氏と城主は移り変わっていった。明治の廃藩置県により廃城となった城は石垣以外すべて取り壊されたが、昭和に入って現在のものを再建している。養蚕が盛んで製糸工場が多かった時期もあるが、現在は食品サンプルの町としても有名。食品サンプル作りが体験できたり、専門の土産屋もある。

 

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【郡上おどり】

 郡上おどりは、1600年頃遠藤氏によって、士農工商の融和を図るため、村ごとにバラバラに行われていた踊りを城下に集めたのがはじまりとされる。7月中旬から9月上旬までの約2ヶ月、延べ31夜にわたって踊られる日本最長の盆踊り。その内、8月13日から16日は徹夜で行われる。幕末の頃、7月中旬の天王祭にはじまり弁天七夕祭、盂蘭盆会などを経て8月末の枡形地蔵祭までを七大縁日として定め、その時に盆踊りが行われていたそうで、これが期間の長さに通じているのかもしれない。江戸時代には武士にこの踊りへの参加の禁令が出されたり、終戦直後には公式記録には残っていないが自然発生的に盆踊りが行われたり、長らく地元の人々に根付いてきた踊りのようだ。

 全10種類の踊りがあり、踊り会場は日ごとに市街地を点々と巡る。「やかた」と呼ばれる屋台に、唄の音頭とりと三味線・太鼓からなる囃しかたが乗り、「古調かわさき、かわさき、三百、春駒、ヤッチク、げんげんばらばら、猫の子、甚句、さわぎ、まつさか」の10曲を、その日の踊り手たちの様子を見ながら組み合わせる。内容は、郡上の町のことや恋愛の話が主。踊りには田植えや手まり遊び、馬の手綱を締める動作などが盛り込まれている。ドレスコードはないが、浴衣と下駄が推奨され、特に下駄は足を踏み鳴らす動作の多いこの踊りには欠かせないものとなっている。盆の供養という目的は前面にはでていないが、保存会によれば魔よけの切り子灯篭や、祖先霊がなまって「アーソンレンセ」という囃子ことばになっていることなど、盆踊りの本来の目的を遺す部分もあるそううだ。現在は、庶民の娯楽として発展してきた性格の方が強く残っているように感じられた。余談だが、踊りの会場には審査員が紛れていて、その夜指定の曲で最もうまいと思った人には免許皆伝の札が渡され、免許状がもらえる。

 

【レポート】

 8月16日、徹夜おどりの最終日に訪問。雨が降ったり止んだりしていたが、深夜には雷を伴う豪雨となった。が、中止になることなく、20時から翌朝4時まで、本町エリアで行われた。地元の人も多いのだろう、0時をすぎてからも続々と自家用車で乗り付けた人々が会場に集まってくる。パッと聞いた限りでは、東京、奈良、大阪、名古屋などからこの踊りのために訪れている人々も多々いた。本町は大きな広場はなく、やかたが置かれた商店や旅館の並ぶ通りがメイン会場。通りに沿って細長く回る。やかたの姿が見えないところまで円が伸びるが、スピーカーで音を流しているので端と中心で盛り上がりさしては変わらない。交通手段の問題もあろうが、どこからこんなに湧いてくるのかと思うくらい、狭い通りに歩行が困難なほど人が溢れ、雨脚が少し弱まると三重四重の列ができていた。

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 はじめは地元小学生による囃子と唄。たどたどしさはなく、かなりしっかりした謡。後の大人による囃子も同様だが、やかたには唄の音頭とりが複数名乗り、一曲終わるとすぐ次の音頭とりへバトンタッチするので、休憩は一切ない。ぐるぐる延々と唄が続く。大人の音頭とりはDJのようで、即興らしき唄を挟むこともある(「踊らない人は早く帰ったほうがいい」とか「こんな唄じゃ踊れないようだから次の人に代わります」みたいな)。踊り手たちは抜けたり入ったりしているが、軒下や通りに面した休憩所から踊りを見て、その場でゆるく踊っている人が多く見受けられた。円の内側には踊れる人が集まり、それをみて踊る人々が外側に加わる。徐々に踊れるようになってくると少しずつ内側へ入っていく。また円の真ん中の空いたスペースでは、一番うまい人々が一直線に端から端まで踊りながら往復していた。この人たちが通過すると、後述するノリの伝播のせいか、ウェーブのように盛り上がりが高まった。

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 踊り自体は、はじめはスピードと種類の多さと若干複雑なのとで、覚えるのとある程度踊れるようになるまで時間がかかった。曲目によるが佃島念仏踊りに比べるとテンポの速く、振りの数も多い。ただしテンポに関しては、若者から壮年世代が多かったため、本来以上に速く感じたのかもしれない。上手い人たちの中でもそれぞれのカスタマイズがあり、足の踏み鳴らし方や腰の落とし方にバリエーションがあった。特に若い男性は足を大きく上げたり、手や身体の振りが大きいのに対し、年配の人はあまり飛んだり跳ねたり身体を大きく振ったりせず踊っており、年配の人を真似てみるとゆったり踊ることができた。だが、単に振りを覚える以上に、コツを掴むのが難しい踊りがあり最後まで踊れなかったものも幾つかある。単純なカウントがとれない動きなのだ。三百という曲で、手を打って一歩下がりまた手を打って一歩前へ出る動きがある。打った手が先に前へ伸びてその後に足が後or前へ動くのだが、1、2、3というカウントではない。はたくように打った手がはたいた勢いの余韻でスーッと前へ伸びて、伸びきる前にその余韻で足が出る、といった風。手の先が引っ張られるイメージで踊ってみたらわりと近づけた。観察と試してみた結果、他の曲にも共通するのだが、腰が居着くとダメらしい。動きはなくても腰が完全に止まって休んでしまうと、そこで踊りが途切れてしまう。途切れると、周りの人とぶつかることもあり、踊り手全体の流れに乗れなくなって、後ろの人に追い抜かれ、いつの間にか円の外側に移っている。腰を生かしておくと、単体としても全体としても踊りの流れに乗りやすくなる。また、慣れない下駄での歩行で何度も躓いていたのが解消され、足の運びや踏み鳴らしが多少は様になるようになった。

 何度かやっている内、うまくコツを掴むために有効だったことが幾つかある。まず、途切れず滑らかに踊っている人の脇かすぐ後ろに寄る。その人の動きをしっかり目で見ようとするのではなく、視界に映っている程度にぼんやり捉える。実際に触れてはいないが、触覚のようなものでその人の身体の流れを感知する。こうしていると、その人のノリにチューニングされ、振り自体を間違っても、身体の流れが途切れてしまうことはなくなった。腰を生かしておくことも、この中で発見した。

 「その人」と書いたが、滑らかに踊っている人が一人だけというパターンは少なく、列の箇所箇所にそういう一角が生まれていた。仲間同士でまとまって踊っている人たちが多いせいもあるが、私同様、一筆書きのような滑らかさで踊る人を手本にして、それを真似るうちにノリが伝播していっているようだった。手本とされる人にもそれぞれ踊りに差異があるので、交じる場所を変えるとノリも変化する。見ているときにも、同じ踊りの長い列の中で箇所ごとに受ける印象が異なった。

 こうした部分部分の小さなノリの伝播が繋がって、全体の流れが生み出されているようだ。この全体の流れは均質的なものではなく、身体の伝言ゲームのように微妙な変化をしながら繋がっていた。流れるプールに浮んでいるような感覚でもあった。またこれは、身体によって生まれた流れで、囃子や音頭と関係はとっているが、主従関係ではなく、相互に影響しあいついたり離れたりしていた。先のレポートのにゅ~盆踊りは音楽に合わせにいく踊りだったのに対して、郡上おどりは身体の流れと音の流れ、二つあって並走している。郡上でも踊りのうまさを追及する人や、この場で踊ることが目的の人は沢山いたが、にゅ~盆踊りの時ほど「個人」が浮き立ってくることはなかった。暗さも手伝っているだろうが、全体の身体の流れに踊り手個人の身体が繋がっているからではないだろうか。

 この全体の流れ、個人的ではないものが、見ている側との間に挟まることで個人の埋没が起こるのではないだろうか。その状態は、個人がそのまま晒される状態よりも、個人の身体は自由なんじゃないだろうか。個人の身体が自由だと、身体の流れが通りやすく、傍目にも伝わりやすくなって、見ている側もその流れに乗れるように、影響されやすくなるのではなかろうか。パフォーマーが一人の場合、例えば面や型、或いはパフォーマンスが向けられる方向性が、この間に挟まれるものになり得るんじゃないか。ノリや流れの伝播効率の高い演劇やダンスは、とても魅力を感じる。