民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

準部員で参加した羽太結子(ダンサー)のレポート

民俗芸能調査クラブ

 

①一年を振り返って:

 

調査クラブの参加した当初、芸能の原点とは何だろうという問いがあった。

テクニックを必要とするダンスと、内発的なものに動かされてつい踊ってしまうことの間に大きな隔たりがあるように感じられて、 改めて、なぜ踊るのか、なぜ動くのか、という問いに向き合ってみたいと感じていた。

 

民俗芸能を見るうちに

分断された(ように感じる)個人と、祭りや芸能を通して何かを共有している(ように見える)個人の集まりと何が違うのかという問いも生まれた。

 

私の皮膚感覚として「個人」というのは、

他者から切り離された個、一人ひとりが孤立している状態である。

それぞれ分断された「個人」がSNSやネットを介して「つながり」を求めていくことと

祭りや、芸能を媒介にして人々が「つながる」ことの差は、何だろうと、人と人、人と芸能の間にあるものは何だろうという疑問を持つようになった。

 

 

当初、民俗芸能と聞いてあまりピンとこなかったし、見た事もなかったが、調べてみると

日本各地でたくさんの芸能が行なわれていることに驚いた。

最初、形ばかりを忠実に再現しているように見える芸能を見た時に「何のためにそれをやるの?」という疑問を感じ、その印象は中々消えなかった。

それは外から見た印象で、当事者達はそれなりに必然性があって行なっているのかもしれないが、文化財となったから残しておかなければならない、という義務感からやっているように見える芸能もあった。この場合の、芸能の必然性というのが何か、最初は全くわからなかったが、いくつか芸能や祭事を見て行くうちに、民俗芸能は、一方的に与えられるものでは無く、その芸能を行なうことが生活の一部であり、生活の延長上に芸能が成り立っているということに気づいた。

 

私が見た芸能の中で、三浦の面神楽が一番芸能を行なう必然性を感じた。

古事記を元にした神楽を、上演時間も3時間と長々と演じる。

地味で、観客へ「見せる」意識がなく、うまく進行しようという気負いも無く、なんとなく進んでいく様子がとても面白いが、いざ演目に入るととても惹き付けるものがあった。演じ手達もとても楽しそうにしていたのが印象的だった。

三浦の町自体、三浦半島の先端にあって、漁業で生計を立てている人がほとんどだろう。

神楽を見ていて、私の勝手な想像だが、日々、命を張って糧をえている海や土地に対して、本当に神様を感じているのではないかと思った。

だからこそ、神楽を奉納するということにリアリティがあるだろうし、必然性があるように感じた。

 

比較する対象として、石見神楽を挙げるが、こちらは、とにかく派手で、サービス精神が旺盛だった。 私が見た演目は、「恵比寿」「大蛇」だが、両方とも、観客を飽きさせないよう様々な工夫がされていた。町全体で、石見神楽を観光資源化しようとしていて、宣伝にもとても力が入っていた。

石見神楽は世界公演に行くぐらい有名で

神楽の知名度を高めるために、万人に対して、受け入れやすいよう、解りやすさ、観客への過剰なサービスを付加していったのではないかと思う。

神楽が土地と切り離せないものだとしたら、石見神楽は、すでに神楽ではなく

エンターテイメントになっているように見えた。

 

他者の目を意識すればするほど、本来の神楽の目的から離れてしまう傾向は石見神楽だけではなく、他の芸能にもあてはまるだろう。後継者不足、過疎化した地方に人を呼ぶ呼び水として芸能を使うことが、民俗芸能本来の目的から逸脱していく、非常に複雑なパラドックスがあることも、この調査クラブを通して知った事実だ。

 

 

<参加してみた感想>

1年の活動期間中、私は、準部員として参加した。部長、副部長はじめ、参加している

メンバーと話すことが、とても刺激的だった。参加している最中は、情報が多すぎて

混乱することが多かったが、クラブの目的が、完璧な実験をするのでは無く、複雑に絡んだ「問い」をそこにいる他者と共有して、問い自体をクリアに出来る、わからないと素直に言える、緩やかな対話の場であることがとても良かった。何かすぐに答えが出る訳でもいことを、ああでもない、こうでもないと話していると、後で、ふと答えに近づけることも多かった。ダンスの活動を続けていくにあたって、このクラブとの出会いは大きかった。特に自分が求めている「ダンス」というものに対する姿勢が、だいぶクリアになった。また、ダンスのみならず、日々感じている閉塞感がどこからくるのか、社会の構造がいかにシステムでがんじがらめになっているか、そういった「社会」にも目を向けるいい機会となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

②実験

 

実験を考えるにあたって、色々湧いてくる疑問のどこにフォーカスを当てていいのか

わからなかったが中間発表では「共有」

期末は発表では「畏れ」について、実験することにした。

 

 

 

 

<中間発表>

 

最初は、個人が神社で願掛けをすることと、

集団で、祭事を行なうことの違いについて、疑問が生じた。

あくまでも、私の感覚だが、個人が、神社の本殿に向かって賽銭を投げて

拍手して、願掛けをする時に、何となくだが、「私」から「神様」という

お願いする方向が一方通行のベクトルを向いている感じがしていた。

それと比べた時に、集団の場合は

神様が中心にいて、それを放射状に取り囲むようにたくさんの人がいて

その人の間に、何か、個人をつなげるものがあるのではないかと思ったのだ。

それは、冒頭に述べた「分断された個人」という概念と、何かつながりがあるように

思えたのだ。

 

 

お馬流しを見た時に、単純に、やっていることのおもしろさはあるとしても

そこにいる人たちが共有しているものが見ただけでは解らず、それが何なのか知りたくなった。

最初は、祭事を行なうことになった「きっかけ」例えば、自然災害、人の死

人間の理解の範疇を越えた出来事を「畏れ」とひとくくりにして、

その畏れを中心においたときに

どんなことが起こるのか見てみたいという気持ちがあった。

「畏れ」を生み出すものを故意的に作ろうと試みたが失敗した。原因は

「畏れ」にリアリティがなければ、畏れにならない、ということ。そして個人個人で

その度合いが違う為、畏れを共有するまでには至らないということだった。

この当たりについては、萩原さんの実験が、やってみたいことに近かったが

ここでは割愛するとして、

実験方法が全く思い浮かばなかった為、下記の方法で試すことにした。

 

 

 

 

 ①参加者全員でお馬流しの再現

 ②その後、3.11当日について話してもらう

 ③再度、お馬流しの再現

 

結果:まず「何かを共有する」とはどういう状態か、を試すために

お馬流しを実際にやってみることにした。 形を真似することで、何かを理解できるのではないかという薄い期待からだった。

形をまねる過程で、頭上を通る箱の中に厄を入れて、厄落としをしてください、とお願いした。

その後、

「現代を生きる私たちが共有できそうな『畏れ』に近い感覚」を探すことにし、

3.11当日のことを話してもらうということを行なった。

円座になって、話を聞いている途中から、あきらかに空気がどんよりとして来た。

その後、再び、お馬流しを再現してみた。が結果はどんより感が増すだけだった。

 

少なくともその場にいた人達の中では、3,11を共有することが出来た。と私は思うことにした。ただ、そこを出発点にするべきだったなと反省した。私自身も押しつぶされそうな胸の苦しさを感じていたので、それを素直に口に出して、その出来事、感じている感覚をふまえて何が出来るかを話すとか、もっと強烈な方法でめちゃくちゃに身体を動かすとか、歌うとか、酒を飲むとか悪態をつくとか、隣に座っている人ともっともっと話し合うとか、叫ぶとか、皆に「どうすればいいかしら」と問いかければ良かったなと反省した。

 

参加者からは、お馬流しをしているときは、儀式の決まり事を忠実に行なうことに気持ちがいっていた為「個」という感じがして何かを共有しているようには感じなかったという意見があり、形式を真似ることで何かを共有するのではなく

3,11のような、共有するされている体験、感覚があって、その後にそれをどうにかする為に、共同で何かを行なった結果、それが儀式化、継承され、厄落としの儀式や、何かの芸能につながっていったのではないかと感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

④期末発表

 ①5人の人に鬼を描いてもらう

 ②鬼の歴史講座

 ③現代の鬼について描く

 

なぜ鬼なのか。

「畏れ」る。ということについて。

災害、死、病気、そういった、人間の力ではコントロールできないものに対して

どのように感じ、処理をしてきたのか、という疑問が生じた。

また、そういった、脅威や、悪となる存在とどう付き合ってきたのか、そこを

昔話しや説話を読み返すことで解るのではないかと思い、実験に至る。

 

 

現代の社会では、死、病、自然災害、人にとって不可抗力のこれらの事態への対処法として、気象庁のレーダー、GPS、衛生放送、携帯電話など、あらゆる最新技術を使い

「防衛・保護」を主体としたシステムで埋め尽くされている。

それは、厄災を避け、現在ここにいない人のことも分かる便利さと引き換えに、現代に至までに積み重ねてきた人間の能力、知恵、コミュニティのあり方を根底から変えてしまう

威力があるものだと思う。

 

「鬼」を調べていくにあたり、昔の人達が、例えば、説話や物語の中に鬼をどのように

登場させてきたか、また、そもそもの「鬼」の語源を調べると、「オヌ(目に見えない)」、人の霊魂、悪事を働く怨霊とされてきた、とある。

そこから、仏教の影響などで、頭に角、虎のパンツ、パンチパーマの大男の

イメージが定着したが、時代によって、修験道、山伏、鍛冶屋、オオカミ

権力者に逆らう謀反者が「鬼」とされてきた歴史が分かってきた。また

説話などでは、人が亡くなることを「鬼に食われた」と表現しており

「鬼」の扱われ方が多彩であることも分かってきた。

 

自分達の住むコミュニティに一本の境界線を引き、その向こう側へと追いやった人を「鬼」と称して「こちら側」と明確に分断することで、「こちら側の人間」のアイデンティティを再認識したり、それを通じて、コミュニティ内の連携を強めたりしていたのかもしれない。

ただ、面白いのは、あちら側に追いやるばかりではなく、

民俗芸能では、鬼も一緒に祭りで踊ったり、泥を塗った鬼に泥をこすりつけてもらうことで厄を落としたり、鬼と交流することを盛んに行なっているのだ。ナマハゲなどは

先祖の霊として敬われ、大晦日に各家庭に招待される「鬼」だ。

こうなると、どうやら、鬼と自分自身の線引きというのがあいまいなのではないかという

気がしてきて、私はそれにおもしろさを感じたのだ。生きている者と、死者との境界も

こちら側とあちら側の境界も実はあまり明確では無い、という考え方が民俗芸能を見て

感じた魅力である。

 

以下が結果。

 

①5名の方に鬼の絵を描いてもらう。

  結果:パンチパーマ、トランクス、こん棒を持った鬼の絵が多い。

②講義の後、「現代の鬼」というテーマで再び絵を描いてもらう。

  結果: ネットハッカー iphone スカイツリー 鹿の角onとoff 

     メビウスの輪

 

その後、全員でディスカッションをしている時に出てきた言葉を

書き連ねてみた。

 

 

桃太郎

高木ぶー

ラムちゃん

雷神 ぶっきょう 般若

 

えんのぎょうじゃ

ものごとのからまり

悪から逃れる

当事者として生きる

どっぷり悪に浸かる

善悪 メビウスの輪

火の粉の中を逃げ惑う人

それが悪い・・とは言い切れない・・かもね

利害関係  両面 境界線の向こう(へ)追いやった人との付き合い方

関係の相対化  必要悪 ネタニヤフ 安倍 向こう側にいる

目に見えない モニターの中にいる 能面  ネットハッカー 匿名性

鬼嫁=角があるのがデフォルト(角は隠せる) システム

iphone 取り付かれ逃げられない 蝕むものの象徴

スカイツリー 状態 鹿の角 とれる 角のONとOFF

己の中の矛盾

部分的な善

 

 

 

「鬼」とされてきたものが、あまりに多彩で、定義がまったく出来なかった為

絵を描いていただいた方々は苦労していた。この実験を最初に考えた時、ある程度答えを想定していったが、全く想定外の方向へ話題がそれていったのが面白かった。

 

絶対的悪とか、絶対的善というふうに言い切れない、物事には必ず二面性がある。

ただ、現代においては、その二面性があることを前提とされず、「悪」と「善」を明確にしたがる傾向がある。「向こう側」には思いを馳せない。

他者との関係性については、人は自分のアイデンティティを確立するために

「異界に住む他者」を必要としている。その「線引き」は、昔話にも昔から出てくるように、現代に始まったことではないが、コミュニティ単位の線引きから、個人と個人の間に線引きをして、一度線引きをしたら崩さない傾向がある。

社会全体が硬直化しているし、人と人との関係性も硬直化しているように感じる。

 

 

コントロールできない「自然」に対峙して生きていた時代は、人の生き死にが身近であっただろうし、祖霊や目に見えない「何か」に守られているという実感が必須だったのではないかと思う。だからこそ、沖縄のパーントウや、ナマハゲも出現出来たのだろう。

「自然」から守られている現代社会のシステムの中で、民俗芸能が形骸化し、初音ミクが流行するのも、時代の変化の結果で、必然なのかもしれない。

ただ、だからこそ、パーントウやナマハゲといった民俗芸能の可能性は大きいと感じる。

硬直した現代社会にこそ、線引きをあいまいにする存在、異界に住むものの存在は重要だ。これからも、その本質を見失わず、絶やさないでいくことが必要だと思う。