民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

本牧神社 お馬流し神事 清水

例によって、概要ののちレポートの形でお送りします。

本牧神社】

 横浜市中区本牧和田。根岸駅からバスで10分ほど、整備された道路と閑静な住宅街の先の丘の上に現在の神社はある。かつては、首都高湾岸線手前の本牧十二天にあり、鳥居のすぐ先に海があった。このあたりは東京湾に突き出た断崖で、湾を航行する船の目印にもされていたそう。周辺は漁村だった。本牧十二天には現在もポツンと木々が鬱蒼とした一角が残っている。戦後の昭和21年から、進駐軍の強制接収により住民は強制退去、神社も仮遷座され、この地帯はフェンスで囲まれた。1982年の返還後、区画整理事業によって現在の位置へ。仮遷座は93年まで47年間続いた。

【お馬流し神事】【お馬流し神事】

 1566年室町時代から400年以上続く神事。神社境内の「お馬の茅場」で育てられた茅でつくったお馬さま(おんまさま)六体に、地域の穢れをすべて移し、海に流す。お馬さまが岸に戻ってくるのを避けるため、かつて祭日は旧6月15日大潮の日に決まっていたが、明治の太陽暦採用からは8月第一か第二の日曜に変わった。

お馬さまは、首は馬で体は亀の形をしており、亀体には神饌として大豆と小麦を蒸して黄粉をまぶしたものとお神酒が入れられる。馬をつくるのは羽鳥家の当主の役割。祭り前日には羽鳥家から神社へ「お馬迎え式」が行われ、お馬さまは一晩神社で休んでから当日を迎える。なぜ馬の形かについては、鎌倉時代に和田山が軍馬の放牧地で死んだ馬を海に流したのは始まりとする説や、お馬は「御魔(おんま)」で邪神を流すためという説など、いくつか説があるようだ。因みに、関東大震災のときにはすべてのお馬さまが戻ってきてしまったそう。

【レポート】

 訪れたのは祭りの当日8月3日。朝8時から本殿内で、氏子総代ら同席の儀式が行われていた。鳥居のすぐ傍には各町のトラックが待っており、船の形に装飾された車両の荷台では小学生によるお囃子が行われていた。境内では氏子さんらが本殿の中を覗き込みながら、お馬の出発を待っていて穏やかながらもお馬さま出発を期待する雰囲気が漂っていた。

 30分ほどして、お馬さま出発。氏子総代らが一列にならび、頭上戴冠でお馬さまを一体ずつ運んで行く。「左足から出て両足を揃える、下がる時は右足から」というのが歩行の決まりらしい。受け取るときに後ろを振り返らないのは、海に流すこと同様に穢れを払うことと関係があるのかもしれない。ゆっくり進んでいくお馬さまの横では、両サイドから小学生男子達が篠(忌竹)を振り、「穢れを閉じ込め」ながら並行。石段を下り、鳥居前で待つ船方の車両のてっぺんへお馬さまを乗せるのだが、登りづらくても整列と頭上戴冠を守る。

 すべてのお馬さまが揃うと、町毎のトラックの荷台に氏子や子供らが乗り本牧漁港へ出発。見送り側は神輿を担いで掛け声をかけ、トラック荷台の人々は手を振っていく。地元の氏子の方々はトラックの荷台が空いていると「もったいない」と言っていた。これらの車はこれから各町内を巡行し、お馬さまに穢れを集めていく。町内の道端には神輿が置かれ巡行を待つ準備がされていた。「もったいない」は、この祭事への誇りの表れのようだった。

 漁港に到着してから、再び一列になりお馬さまを和船まで運んで行く。本牧十二天に神社があった頃は、すぐ目の前に浜と海があり神社からお馬さまをそのまま和船へ運び入れていたそうだ。和船は昭和38年以降、エンジンつきの漁船に変わっていたが、昨年から修復し50年ぶりに木の和船に戻ったという(エンジンは搭載している)。いまは15人乗りくらいの規模だが、かつては30~40人ほど乗船できたそうで、本牧神社のサイトで写真を見ることができる。かつての船に乗ってお馬を海に流したという年配男性の話では、1時間くらい海に出て「千葉の方までいったんだよ」とのこと。実家が本牧で同じく和船に乗船したことのある女性の話では、10年程前は八景の方までいったという。いまはだいぶ距離が短縮されているようだ。お馬を流した後、港に帰ってくるときはかなりヒートアップする競争だったそうだが、今回見たものは特に競走はされず、それぞれの船は、かなり間隔が開いて、ゆっくり戻ってきていた。また、帰港する際に艪を立てるのだが、いまは「ダンスのようだ」と言っていて、かつては水しぶきをあげるほど激しかったらしい。

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 帰港を待つ人数もやはりかつての方が多かったそうで、神社HPの説明にあるような「各町毎の振って応援する」姿も見られなかった。旗の代わりなのか、各町毎に色が分かれたネクタイのような短い布を首に巻いた氏子さんら数十人が、小学生による獅子舞とともに帰りを見守っていた。時折、漕ぎ手に「がんばれー」「上手ー」などの声もかかった。

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 現在お馬を流す和船は二隻で、昔から乗船できるのは浜方の3町の人に限られるとのこと。祭礼委員の男性曰く「陸方の人間は浜方に託してるんですよ」。乗船の誉れと、乗船できない側のルサンチマンというか厳しい期待みたいなものがあるように、話を聞いていると感じられた。

 

 出港前の「せめ」と呼ばれる、お馬さま乗船直前の“全力疾走”も、事前に見聞きした情報よりだいぶゆったりとしていて、先の年配男性らが「昔は~」というように、だいぶ祭全体の勢いは失われてきているのだろう。ただ、先日見学した鷲宮神社夏越祭(催馬楽神楽奉納と人形流し)より、少なくとも参加している地元住民の期待がこの神事には込められているように感じた。先の「託している」という言葉や和船の復活もそうだし、地元とはいえ、わざわざ祭りの最後まで見て苦言をポロポロこぼす年配男性らの言葉も、この神事への期待の裏返しだろう。

 鷲宮神社夏越祭と単純には比較は出来が、推論として。五穀豊穣よりも、厄払いの方が現在においても人々に共有されやすい願いなのではないだろうか。これには、供養も入るだろう。また、立地として海が近く、かつて漁村だったことも、地元住民と神事の結びつきを強めている一因ではないだろうか。稲作地域と漁業地域の違い。時代が進むに従って、技術を進歩させ収穫を増やし安定させてきたわけで、五穀豊穣への切実さは、神に祈るよりも、可能な限り人工的努力をするほうへ移っていったのだろう。更には農業人口自体も減っている。これに対して、漁業も技術的に進歩してきたが、いまだに収穫に際して人間の手に負えない部分が、稲作よりも大きいのではないか(後日話した萩原さん曰く「主導権はあちら(海、魚)だもんね」)。直接的な命の危険も、漁業の方が高い。個人や集団の努力にウェイトが置かれる一方で、手の及ばぬ範囲に関しては神頼み、というのは安産や受験や縁結びの祈願などがあるように、現在でも馴染みのある行為だ。こうしたことが、かつての勢いより衰退しているとはいえ、まだ、神事とそれを執り行う人々との結びつきを支えているものではないだろうか。

 お馬流しは今年で449回目、来年の450回目は節目とのことでより盛大に催す予定らしい。形をよりかつてに近づけたとしても、昔と同じものには決してならないだろう。どんな変遷を今後も辿っていくのだろうか。