民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

田遊び@徳丸北野神社(板橋区) 清水

訪問日:2月11日(祝・水)18:00~20:00

 壁のように聳える団地で有名な高島平は、古くは徳丸ヶ原と呼ばれ、荒川の南に広がる穀倉地帯だったそうだ。今ではその面影を探すのは難しいが、1974年の航空写真(wiki掲載)では、団地の周りに畑か田圃が広がっているのが確認できる。その高島平駅周辺の平坦な土地から南へ、坂を上った先に徳丸北野神社がある。創建1020年といわれ、995年から現在の田遊びに繋がる神事が、毎年旧暦の正月11日に欠かさず行われてきたという。

 

 

 かつては夜通しだったのかもしれないが、現在の田遊びは2時間程度。18時頃から、社殿前に木で組まれた舞台に神主や氏子(田遊び保存会)ら20数人が乗り、神事が始まる。四畳程度の舞台は木柵と忌竹・注連で囲われ、中心に大太鼓が置かれる。この太鼓が田に見立てられているのだそうだ。地に立てた太鼓を叩くことで、田の神に呼びかけるとか土地の力を呼び起こすとかいうことだろう。また、鍬を見立てたものだろうか、先端に直径20cmほどの餅をつけた竹を担いで太鼓の周りを回って太鼓に押し付けたり、耕作の見立てとして「うしーうしー」の掛け声と共に牛が太鼓の周りを回ったりもする。

因みにこの牛は勿論人が扮しているのだが、紙で作られた牛面は子どもがふざけて描いたとしか思えないような愛嬌たっぷりの面である。でもしっかり受け継がれている面だそうで、後記事の赤塚諏訪神社の田遊びの舞台にも、この牛面と同じ柄の切り紙が飾られていたので、おそらく色々大切な意味がある絵柄なんだろう。

 

 全員で四方に礼をする四方拝ののち、掛け合いの台詞のようなものを挟みつつ、田植えに纏わる唄が延々歌われる。聞き取れた範囲だと、序盤はこんなことを唄っていた。

 

「○○通り○○通り、福の種を撒こうよ(ふうくのたあねをまあこおよお)」

「一本○○(振って?)千本になる」

「神主、神なるものやな(かんぬしかんなるもおのやな)」

「きょおはどおこのとおりより」

「こども/おとな/としより/にょうぼう(等等)たあちのとおりより」「ほいほいほい」

「田の方走ります(たのかたあはしりまあす)」→神主がその場でくるっと回る

 

 曲調は例えるなら「夕焼けこやけ」くらいの明るさで、変化はあるのだがはっきりとはしていない。「種を撒こう」「どこに撒くか」、「作付けがいいです」など、途切れなく内容だけがどんどん移り変わっていくような印象である。唄声の方向性は、遠くへ向かってではなく、足元の床や地面にばら撒かかれているようだった。途中、お神酒を飲む10分ほどの休憩が入るが、延々1時間以上、同じような調子で唄が続いていく。

 

 単調といえば単調なのだが、聞いていて飽きない。途中、前述の牛が何度か回ったり、小さな子どもが太鼓の上で担ぎ上げられたり、そういう動きの変化もあってだろうが、なにより、歌っている大人たちが徐々にノってくるのが面白い。初めは見物人の方をちらちら見たり、わずかな緊張が見受けられたりしたが、長く唄って少量ながらお酒も入ったからか、徐々に舞台を中心に空気が弛緩してくる。本当にゆっくりゆっくり、1時間以上かけて場があたたまってくるのだ。

 おそらく、大人たちは延々続く唄に飽きている。だからといって校歌をいやいや歌う中学生のようにはならず、かといって神事を守るといった畏まり方もしない。子どもを担ぎ上げたり牛に掛け声をかけたりする些細な所々で、愉しもうとするのかなんなのか、活き活きしてくる。顕著なのは牛への掛け声だった。序盤は普通にただ「うしーうしー」と言っていたのが、後半は囃し立てるようなニュアンスの「うしーうしー」に変わった。平坦に抑え抑え進行してきたところから徐々になにかが開放されていっているようだった。

 

 とはいえ、この「開放」感やノリは非常にゆるやかでささやかなもので、わかり易い盛り上がりではない。そのなんともいえない開放してきた雰囲気が、松明の登場によって「おめでたい」雰囲気に変わる。

 

 舞台の全員が西を向き、神主が手招くように扇を扇ぐと、地面に松明を擦り付けた炭跡に続いて、米子、お櫃、獅子、鋏のようにクロスさせた矢、孕み女(おかめ)とそれを扇ぐ男(山の神=田の神っぽい黒面)、竹枠の馬などが次々にやってきて、舞台の周りを一周する。

 因みに、ここで登場する米子(米の中の神様)や馬もふざけたような愛嬌たっぷりの容姿で、矢を持つ人や孕み女はたぶん確実にふざけている。紙でできた張りぼての米子は「ちびまるこちゃん」のハマジのような顔だし、矢はこれ見よがしに「やあー!」の掛け声とともに手にした矢をアピールするし、孕み女は見物人に腹を差し出しながらなかなか進まない。獅子も、なかなか進まない。終いには舞台上から笑いながら「早くこい」とヤジが飛ぶ。でもこれ、西から次々やってくるめでたいものに対して「早くこい」と言っているので、もしかしたらその場限りのヤジというより、恒例の台詞なのかもしれない。

 

 最後に再び唄があり、見物人も含めて皆で三本締めをして終了。ほぼ2時間きっかり。今の形式になるまでどんな変遷があったのか、資料が手元にないのでわからないが、唄い方はだいぶ変わっているんじゃないだろうか。1000年以上続く神事と聞いていたので、もっとわからないかと想像していたが、思いの外、聞き取れる語彙や意味のわかる言葉が多かった。用いられる小物も、何の見立てか、何を表しているのか、比較的シンプルでわかりやすかったように思う。唄に関しては、あくまで想像だが、かつてより声や言葉の響きよりも、意味に寄って発声されているのではないだろうか。

 

 民俗芸能を少しずつ見慣れてきたせいもあるだろうが、1000年以上続く神事と聞いてイメージするものほど古臭く感じず、今に生きる人々が行っているので当然といえば当然だが、現在性があった。開発され稲作自体は廃れたが、形ばかりが保存されているだけではない、なにか活き活きとした感じを受けた。今後、これが「1000年以上続く神事を守ろう」といった畏まり方をしたら、おそらく一気に先細っていくんじゃないだろうか。見ながら感じたゆるやかな開放感、日常生活に溢れる刺激的な娯楽とは違うけれど、祝い事に伴う愉しさが長い歳月続いてきた鍵で、今後も重要なものではないだろうか。