民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

筑前御殿神楽参考資料 清水

以下は、レポートを書くにあたって参考資料からまとめたものです。

 筑前神楽の中でも、旧遠賀郡の社家に伝わるものを筑前御殿神楽という。室町時代から500年以上の歴史を持つ。神職のみによって行われ、神前以外では舞われないのが特徴とされている。採り物を用いた「舞神楽」と神話を演じる「面神楽」とで構成され、湯立てが行われる場合もある。

【旧遠賀郡と波多野家】

 遠賀川流域は、縄文時代の推定図によると、かなり内陸の直方の辺りまで遠賀湾が広がっていた。明治30年代に八幡製鉄所ができ大規模な工業地帯として大きく変化するまでは、半農半漁の地域だったそうだ。今回訪問した枝光も、製鉄所ができる前は106戸ほどの規模の村だったという。史料によれば、江戸期には徳川による西国諸大名の統制、財力削減の影響で課税の負担も大きく、江戸期を通じて遠賀の人口は増えていない。また遠賀流域の洪水灌水、或いは旱水のため収穫が厳しく飢饉にも悩まされてきた。享保の飢饉では筑前国の四分の一にあたる10万余人の死者が出たという。

 

 旧遠賀郡(遠賀郡中間市北九州市若松区戸畑区、八幡西区、八幡東区)一帯の社家の中心となってきたのが波多野家である。本家筋の黒崎春日神社・尾倉豊山八幡神社、芦屋山鹿の狩尾神社・黒崎岡田神社・一宮神社、枝光八幡宮・戸畑浅生飛幡八幡宮・その他と、概ね三区分があるそうだ。

 遠賀という地名はヲカ=岡=岡縣(あがた)主(ぬし)の領地からきており、古くは記紀にも登場する名である。岡縣主熊(くま)鰐(わに)は神功皇后新羅出兵に際し、船団を整えた海洋軍族で祭祀専門の部族とのこと。この岡縣主の子孫忠経に世継がなく、波多野家から婿養子を迎え社稷を継がせ、以降、岡姓から波多野姓となる。波多野家は藤原氏譜代の家柄で、岡家と血縁の麻生家とも関わりがあったらしい。

 麻生家は鎌倉室町にかけて旧遠賀一帯を治めた花尾城主。もとは、遠賀川河口東岸に城を構えていた在地豪族で水軍の山鹿氏(平家方だったため所領没収となり遠賀郡へ)と、鎌倉初期に鎮西に伴い下野(栃木)から入国してきた宇都宮氏が姻戚関係を結び、宇都宮朝綱二男家政が山鹿姓となり更にその二男が麻生姓として分家したのが始まり。大内氏や毛利氏との繋がりも深く、後には黒田家に仕えた。波多野家とも姻戚関係を結んでいる。

 この波多野家を中心に遠賀の社家は分家し数を増やしていく。記録としては天正5年(1577)頃から万治4年(1661)までは、波多野家の両部習合時代で、神楽の記録中に仏教の凡字が記されている。万治4年~享保20年(1735)の約70年間、4代にわたって吉田神道を学び仏教色は消えていく。裁許状取得に神楽が必須であった吉田神道を通して、宮中御神楽が筑前御殿神楽に多少なり影響を与えた可能性の指摘がある。

 明治の執奉廃止によって多くの神楽が氏子へ継承されたり廃絶したりした中で、筑前御殿神楽は神職による奉奏を続けてきた。余談だが以前訪問した鎌倉御霊神社の神楽も神職のみで行われているが、やはり全体中の数としては少ないのだろう。社家による奉奏を守った当時の具体的な思想や行動はわからないが、参照資料の著者である波多野學氏の「神職と伶楽は切り離せない」「神/神社の存在なくして神楽の意義はない」「神楽を通して産子氏子と神とが一体になる」といった言葉から、その思想と意識の高さが垣間見える。昭和42年には高齢化と座員不足により継承が危ぶまれたが、事態を受けて神楽奉奏を行う社家が集まり研究と月3回3年間の講習会を始めたという。同時に各社家の神楽の記録を「昭和筑前御殿神楽記」として新たに纏められた。現在行われているものはこれに則っている。

 

筑前御殿神楽の奉納記録】

 一番古い記録では、文明8年(1476年)の神楽座による終夜の奉奏が黒崎の『波多野家文書』に残っている。この時代においては、社家が舞っていたのか、神楽専門の移動集団が舞っていたのか定かではない。

 記録によると、天正時代には神職が舞う神楽となっていたようだ。また、遠賀の面神楽が記録として残るのは天正以降である。天正16年(1588)、九州統治に乗り出していた秀吉下の小早川隆景が代参し豊山八幡神社で神楽の奉納が行われる。この時、麻生隆実によって神楽面一箱が奉納され、宮司による面神楽が行われた。麻生家はそれまで遠賀一帯を統治し、豊山八幡神社は代々庇護してきた神社でもあった。かなり微妙なパワーバランスの下で行われた神楽だっただろう。この天正に納められた面は天保11年(1840)に焼失してしまい翌年作り直された。天保面は九面であるが以前と同様かは不明。

 江戸期には黒田家の庇護の下、奉納者にも黒田家の名が連なってくる。寛永6年(1629)には黒田大明神を祀っての神楽奉納の記録があり、以降春日神社において歴代奉納され、遠賀の社家が行うことが通例となっていった。また安政6年(1859)3月には、福岡城御館において遠賀郡鞍手郡の社家16名による大々的な奉奏も行われた。また明治時代には大嘗祭において京都御所でも奉奏された。

 氏子による奉納も盛んで、古いものでは天和2年(1682)から相当量の記録があり、文政6年(1823)には遠賀の93社が奉納に携わっている。稔りの秋の「お宮(くん)日(ち)祭」が主だが、大造営や疫病流行の際にも行われたそうだ。

 波多野學氏の記憶では、昭和40年代までは10月の約一ヶ月、神楽座神職は基本的に自宅に帰らず各社を巡っていたそうだ。明治中期には50社ほど2座に別れて毎夜または日中に奉奏していたといい、明治以前は夜通しだったそうだ。昭和40年代頃まででも夜通しではないが、湯立て・直会まで含めると1時頃まで行われ、当番屋宅に泊まり翌日また奉奏へ出かけたという。村人も21時頃の面神楽あたりから集まり出し、供物を撒く事代の舞では社殿に人がぎゅうぎゅうだったらしい。これは今回訪問した際の奉納にも通じる場面である。

 

【御神楽との関わり】

 まず、宮中御神楽と筑前御殿神楽では、神楽歌には同一のものが多いが、採り物の番付や順番にかなりの相違がある。神楽歌についても、宮中御神楽が整えられた平安以前に筑前において歌い継がれていた可能性がある。トップダウン式のようにわかり易く宮中御神楽を取り入れたとはいえず、各時代に、幾つかの経路を通って御神楽が伝わっただろうが、

筑前御殿神楽はそれを基に創られたわけではない。

 宮中御神楽が伝わってきたルートの可能性として、資料では吉田神道への変遷の他にも、宗像大社との関わりと京麻生の存在が挙げられている。

 宗像大社は勅任社として応安8年(1376)から御神楽の伝承があった。しかし、宝永元年(1704)には既に絶えており、御神楽と筑前神楽とは別けて扱われていたそうだ。宮中御神楽の八乙女舞と遠賀の乙女神楽との関連から、宗像大社神職の許斐家の影響により宮中御神楽が遠賀の採り物神楽に吸収された可能性が指摘されている。また宗像郡は遠賀の高見神社を中心とした岡垣村に隣接し、筑前城主のある福岡との中間地点であり、社家同士の行き来や縁戚関係も深いとのこと。

 京麻生と呼ばれた麻生兵部大輔興益は宮中内侍所御供衆で、御神楽や能への知識があったと推測されている。天正16年に神楽面一箱を奉納したのは、孫の隆実。鎌倉期には上洛で麻生家が猿楽を興じていた記録があるそうだ。面神楽は宮中御神楽にはないそうで、遠賀の面神楽は麻生家の意向により庇護下の波多野社家によって舞われるようになった可能性もあるという。

 

【現在の神楽演目内容】

舞神楽

榊舞

よき神の到来を願い、祓い清めの為の大麻(おおぬさ)(お祓いの榊)と鈴を持ち舞われるはじまりの神楽。舞の心は「ゆっくり優美に」。舞のはじめには「榊葉に木綿(ゆふ)とり垂でて誰が世にか/神の御室と齋(いは)ひそめけん、神の御室と齋(いは)ひそめけん」という言が唱えられる。

弓舞

弓と鈴を持って舞われる。狩猟生活において、また武器としても貴重な道具の弓は神具として扱われ、弓の霊威によって豊かな幸を祈る神楽。舞の心は「ゆっくり勇壮雄大に」。はじめの言は「弓と言はば品なきものぞ梓弓/真弓槻弓品々あるぞ、真弓槻弓品々あるぞ」。

太刀舞

太刀二振りを持ち、邪気を防ぎ伐(き)る神楽。舞の心は「少し早く流暢勇壮に」。はじめの言は「白金の目抜の太刀をさげはきて/奈良の都を練るはたが子ぞ、奈良の都を練るはたが子ぞ/石(いそ)の上(かみ)古や己(お)の子の太刀もがな/組(くみの)緒(を)垂(し)でて宮路(みやぢ)通はん、組緒垂でて宮路通はん」。

久米舞

折敷(おしき)(盆)に左右それぞれ八つにギリのお米を入れ、五穀豊穣の祈りと感謝を表す舞。遠心力をもって一粒も零さず舞う。舞の心は「早く流暢に」。はじめの言は「五種(いつくさ)の種を目上(めて)に捧げつつ/民豊かにといざや祈らん、民豊かにといざや祈らん/(此の米は何この米ぞ舎人らが神にささげる友岡の米)」。

 

面神楽

国譲りの舞/鹿島の神大汝の神の舞

天照大御神の命を受けたニニギノミコト一行が天上界から降り立つ前に、先兵として武神の鹿島神が降り、大汝(おほなむち)神(大国主神大黒神)と問答をする。もし国譲りをしないなら武力に訴えるという鹿島神と大汝神との間で一触即発のような舞。結果、中臣神のとりもちで天孫に国土を譲ることとなる。約束の徴に鹿島神の矢と大汝神の矛を交換。鹿島神はこの旨をすぐ天上に伝えるため戻っていく。

天孫降臨の舞/前駆の神天の鈿命猿田彦の神の舞

鹿島神の報により、愈愈天孫降臨となる。まず先鋒を祓い清める前駆の神(翁神)が登場。ひょうきんな動きと愛嬌ある翁面(邪魔面ともいう)により笑いを誘いながら、神楽を見守る人々の中にまで分け入り祓い清めていた。続いて天孫降臨のお伴である天の鈿命が下り、中臣神の勧めで舞う。すると前駆の神からの知らせが中臣神に届く。これから向かう先に鼻が長く眼光鋭く口を開けば真っ赤なすさまじい様の一神が立ちはだかっているという。天孫降臨を迎えるために待っていた猿田彦の神である。天の鈿命と猿田彦の神の間で問答がなされ、猿田彦の神は葦原の中津国ではなく、筑紫日向の高千穂への降臨を推す。

磐戸開きの舞/手力男(雄)の命の舞

天照大御神は弟須佐之雄の命の荒々しさに耐えかね天の磐門に隠れてしまい、国中が真っ暗になり邪悪がはびこる。磐戸を開くために力の神手力男の命が両手に松明を表す白い房幣を持ち、隙間を探している。

事代の舞/事代主の神の舞

大汝神の御子神。海の幸を掌る恵比寿神。釣竿を持ち、参詣者にお供えを分け与える。

 

参考引用文献

筑前神楽考―遠賀御殿神楽―』波多野學著

参考資料

仲宿八幡宮発行筑前御殿神楽解説プリント

東田第一高炉跡広場内掲示