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民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

金王八幡宮例大祭 清水

金王八幡宮例大祭 2014年9月13日14日 @渋谷区渋谷三丁目

訪問日:例大祭日14日 10:00~21:00

八幡宮概要】(「金王八幡宮参拝の栞」、神楽殿前の掲示資料より)

1092年に鎮座。秩父別当平武基が平忠常の乱平定において功をたて、軍用旗を秩父妙見山に納め八幡宮と崇め奉る。1087年、武基の子武綱が嫡子重家と共に、後三年の役源義家の群に加勢し功を立てる。この功績によって武蔵谷盛庄(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井等)を賜る。義家は、この勝利は武綱の信奉する八幡神の加護として、妙見山に納めた旗の一つを乞い求め、現在の地に八幡宮を勧請。武綱の嫡子重家の代に武勲により渋谷の姓を賜り、八幡宮を中心に館を構え居城、氏族の鎮守として崇めた。現在も境内に渋谷城砦の意志が保存される。金王の呼び名は、重家の子金王丸にちなむ。

 

 現在の社殿は、江戸時代1612年に青山忠俊と春日局によって造営。権現造りで江戸初期の様式をとどめる。拝殿正面左右には獏と虎の装飾がなされ、世の安寧と正しいまつりことへの祈りが込められている。

神楽殿の建立は定かではない。神楽殿に元々掲げられていた「面白殿」の扁額裏には「文久二壬戌歳八月十五日」(1862年)とあり、これが最も古い資料。1927年(昭和2年)に改築、奈良時代の様式をとった現在の神楽殿となる。「面白殿」の扁額は宝物館に収蔵されていたが、景気低迷、東日本大震災、人心の荒廃など混迷する世の中が少しでも好転するようにと、今年から再び神楽殿に掲げられることになった。 

【レポート】

 渋谷聞いてパッと浮かぶのは、スクランブル交差点やセンター街、道玄坂など、人ごみとビル群と広告と大型TVから流れる映像と音。そんな印象の街で、終日里神楽の奉納があり、109前に神輿が集結するというので、訪問してみた。前日13日は、神楽殿でお笑いやカラオケ、BEGINの奉納ライブがあったらしく、イベント系の祭りかもしれないと懸念もあったが、予想に反して、渋谷にいるとは思われない、落ち着いた、且つ地元感のある例祭だった。

 渋谷駅から六本木通りを10分程歩いたところに、金王八幡宮はある。こぢんまりとした境内には、正面に社殿、左手に綺麗な社務所、右手に神楽殿が位置している。参道には4軒ほどの屋台が出ているのみで、静かだ。前日は訪問者でごった返したそうで、例祭当日はそれほどでもなかったが、時間がたつにつれ近隣の住民や企業の人々が増え参拝の短い列が出来ていた。道を挟んだ向かいの駐車場が飲食ブースとなっており、設けられたステージではジャマイカのバンドや和太鼓の演奏などが行われていた。

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 10時から社殿の中で氏子列席の祭典が行われていた。もちなどの供物が献ぜられ、祝詞が読み上げられる。神主の話では、それ以前にお神酒で神楽殿や参道などを清めてから、社殿への入場が行われたそうだ。まずこの清めと祭典がなければ、後の神楽や神輿宮入や渡御など、いわゆる祭りらしいことは行えないという。大祭の意義は、一年見守ってくれた神への感謝を表すもの。かつては渋谷でも地域集団がなければ生活できなかったため、個々人の日々の参拝とは別に、集団での大祭が重要とされた。収穫物を「あなたの為にこれだけのものを駆けずり回って集めました」と奉納し、神に喜んでもらうのだという。また、神主といえど普段は神との適切な距離を保っているが、大祭にあたってはより神に近づくため、事前の期間の禊が大切になる。どんなに資金的に困ろうと、一度でも大祭を絶やすことはできない。それは、自分たちの歴史を否定することになるから。装束を纏った自分の肩には920年の重みが乗っている。よく自分探しという言葉を聞くが、大祭を執り行う責務が生きる理由の一つにもなる。20歳から神職についたという、外国出身の若い神主から、そう説かれた。また、祭典の中で君が代が斉唱されていたことを不思議に思い質問すると、「逆に、何が不思議ですか」と返された。君が代の言葉は、もともと万葉集などに見られ、国歌として法律で制定されたのは最近のこと。祭典にあたって歌われるのは、その歌詞が永い繁栄を願っているからとのことだった。国歌制定の法律を「阿呆な法律」と呼び、「『国歌』であるとか、そういったものに縛られず、もっとラクな見方があるのに」と言っていた。

 以前、いわき市久ノ浜にある諏訪神社の神主に話を伺ったことがある。その若い男性の神主と、先の神主の印象が重なった。諏訪神社の神主は、神社と地域の関係、津波被災した地域の今後、神職としての態度や責任について、しっかりとした自分の言葉で語ってくれた。両者に共通して感じるのは、神職への強い責任感だった。神主としてこちらに話しているので、その側面が強調されるのは当然かもしれない。しかし、職や神社や歴史や地域について語る言葉の確かさは、その言葉が形骸化した受け売りではなく、彼ら自身の中で生成された言葉だと思わせる。自分の内に自分を探し何某かを決定するのではなく、神職という役割を全うしようとする中に、彼らの生活がある。勿論両者はきっぱり分かれているものではないが、彼らにおいては後者の比重の方が高く感じる。神や信仰という言葉には随分手垢がついてしまっているが、彼らのような人を通して、現代における「神」や「信仰」がどういったものなのか、捉えなおすことができるのではないか。

 

 祭典が終わって11:00頃から、神楽殿での里神楽奉納が始まった。といっても、切れ目なく行われるわけではなかった。各町の神輿の宮入と神社出発の際に、囃子で迎えと見送りをする為、その合間を縫って里神楽が行われる。1時間半から2時間の間に1演目くらいのペースだ。演目の順番は決まっておらず、演目名も定かではない。最後に行われた演目以外説明は挟まれないのだ。囃子の方から伺った範囲では、「八幡山(やわたやま:神功皇后三韓征伐にあたっての舞)」「福徳の舞(七福神大黒天が供物を撒く)」「稲荷山(稲荷大神と天狐による五穀豊穣天下泰平の舞)」「山神(天狗面の山の神が神楽の道具を山へ持ち帰る納めの舞)」などが奉納された。

 里神楽を奉納するのは、相模流萩原正義社中。板橋区を拠点とし、初代~3代目までは専業の里神楽師だったそうだ。いまは兼業となっているものの、板橋では9~10社の得意先を持つ。社中の方によれば、里神楽の団体にも縄張りやお得意様というものがあるそうで、以前は違う団体が行っていたそうだが、金王八幡宮宮司交代の際に先代宮司からの指名を受けて、こちらでも里神楽の奉納を行うようになったとのこと。奉納は年2回、秋の例大祭と春の金王丸御影堂例祭にあたって行われる。八幡宮側では、里神楽の継承保存への協力という意図もあり、「持ちつ持たれつの関係」だという。

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 すべて面をつけて行われ、基本的に台詞はない(二つ程の演目で、一言台詞を言っているものがあったが、仮面でくぐもって聞き取れなかった)。囃子は大太鼓、締太鼓、篠笛、能管(笛)、大拍子が主に使われ、幕の奥から鉦が鳴らされることもあった。歌はなし。初めの演目以外はすべて主従関係を持つ二人の連れ舞で、主人登場→神棚への挨拶→舞→従者登場→神棚へ挨拶→マイムで会話→舞→退場の流れで行われる。

 舞は、歌舞伎のように見得を切るような仕草が多用され、足を大きく上げたり踏み鳴らしたり勇壮なものが多い。用いられる小道具には、定番の鈴や御幣以外にも扇子、刀、弓矢などがある。弓矢は、稲を荒らす害虫を駆除するものとのこと。矢は2本あり、一方で射る仕草をした後、もう一方を斜め上方向に翳し見るのが、舞中に一連の動作として繰り返される。面をつけ台詞がない代わりに、動きの間にわずかな止めが入り、一つ一つの仕草がはっきりしている。

 会話部分でも、矢を射る仕草、山、平ら(天下泰平)、返事などがわかり易いマイムで表される。従者が主人に話しかけるときは、必ず手を打って、それに主人が反応して振り向き、漸く会話が始まる。能の囃子の笛などに共通する、神を呼ぶ為の音だろうか。

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 比べるのもなんだが、7月末に見た里神楽の源流とされる鷲宮神社の土師一流催馬楽神楽より、単純にうまい。現在は兼業とはいえ、拠点の板橋以外でも各所で呼ばれて奉納できるくらい、保存継承のための体制が整っているのだろう。ダイナミックな動きの時にバランスが危うくなったり、道具を扱う手先がまごついたり、細かな部分に面の裏の人間くささが覗くことはあったが、見世物としてみても耐えるものだった。

 境内では、社殿での祈祷や神輿の宮入も並行して行われる。道挟んだ向かいのイベントステージから和太鼓やバンドの演奏も響いてくる。その中で、周囲の音や見物人の存在に左右されることなく、淡々と里神楽が行われる。神楽殿に集まる人数は少なかったが、舞手の動作には緊張感があった。奉納という意識が社中の面々で共有されているのだろう。特に印象的だったのは、囃子方の視線で、舞手の動作を注視しながら伴走するような演奏だった。また、神輿の宮入と出発の際にも、神輿と担ぎ手の方を見据えながら演奏していた。供物(お菓子)をばら撒く「福徳の舞」以外、見物人に向かうベクトルはないのだが、かえってひきつけられるように見てしまう。現在だと「なにをやっているんだろう?」から始まるが、その意図や意味がもっと共有されている場だったら、見物人の期待も乗せた大きなグルーヴが生まれたのだろう。 

 14時過ぎに一度境内を離れ、各町の神輿が集結する109前へ向かった。109前から道玄坂上まで車両通行止めとなり、各町会、八幡宮のある渋谷三丁目の宮元、二丁目、道玄坂鶯谷、センター街、百軒、宇田川、ときわ松、栄和など10数基の神輿が犇いている。歩くのが困難なくらいの法被集団。対抗心を燃やしてか、威勢のいい掛け声や手拍子が響き、担ぎ手の動きもエネルギッシュで、表情は生き生きとしている。法被姿で江戸っ子風情のおじさま方も、粋に見える。茶髪金髪ドレッド辮髪ネイルツケマなどなど渋谷で見かける姿の20代後半~30代頃の若い担ぎ手も多い。たまたまこの神輿終結に遭遇した人たちも、足を止めて眺めたりスマホで撮影したりして、人の輪が大きくなる。普段の道玄坂とはだいぶ違う空間ができていた。

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 八幡宮に宮入し祈祷を受ける姿などを見ているときにも感じたが、所謂渋谷の街の印象からは浮ばない、「町会」感があり、109前の神輿集結でもイベント的な印象はなかった。住民は少なく町会に属する人も減っていて、担ぎ手を募集する町会もあれば、町会の人間とその繋がりだけで担いでいる神輿もあるそうだ。募集にしても媒体は張り紙がメインで、在住ではないにしろ、会社の繋がりで担いでいる人も多いようだったから、地域への馴染みや思い入れがあるのだろう。中心となるのが地域住民で、そこに住民以外の人々もうまく混ざり合っているようだった。

 

 例大祭を見ながら、「神」について考える。神というと漠然としたイメージとして既に擬人化された存在が浮かぶ。異形の姿で人を超えた能力を持っていても、神話には人間くさい行為やエピソードが出てくる。話や姿は人が作ったので当然といえば当然だ。が、0から人間が創造したというより、物質や現象に形や説明を与えたものだろう。単純な対応関係ではなく複雑さを孕み、権力や権威の影響も多分に受けてきたろうが、根本は、意味や意図が排されている対象への人間の側からの働きかけが、「神」や「信仰」といった形で表されているのではないか。それは、対象を前にして沈黙せざるを得ない人間が、沈黙以外の態度として編み出した行為といえる。「畏怖」や「敬意」といったものは、思想や言葉から理解されるというより、対象への反応として身体的にわかるものだったのではないか。同様に、身体的反応として「神」や「信仰」も編み出されてきたのではないか。沈黙せざるを得ない対象には害をなすものも多いが、その行為は直接対象を変化させ問題を解消する性質のものではない。一方で、技術や科学的思考の発達によって、直接的に対象を変化させ害を解消する術も得てきた。沈黙するしかない対象が減ったことは一概に悪いことではないし、形や説明を与えて安寧を得るという点では、「神」や「信仰」を生み出してきた行為が姿を変えただけともいえる。しかし、沈黙せざるを得ない対象そのものは実際に減ったりなくなったりしたわけではない。また、山や海といった自然に限らず、現在の社会の中にも、沈黙せざるを得ない対象があるのではないか。それに対する行為は、細分化しているのかもしれないが、発生しているだろう。今回のような例祭にも、現代におけるそうした行為が含まれているのかもしれないし、演劇やダンスもそうしたものの一つかもしれない。