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民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

鷲宮神社催馬楽神楽 清水

 鷲宮神社催馬楽神楽についてざっとした概要ののちに、訪問した日のレポートを載せています。

鷲宮神社

 鷺宮地域は縄文時代には海が近く、神社境内からは遺跡が発掘されている。土器をつくる土師氏が住んでおり、「土師宮」がなまって「鷲宮」になったのではないかといわれている。広い低地で、昔から利根川の洪水や、最近では昭和22年のカスリーン台風など水害が多い地域だった。鷲宮神社の名前が現存資料で最初に登場するのは『吾妻鏡』。鎌倉幕府時代以降も、武将との関係が強く、古河公方足利成氏の戦勝祈願(当時の勢力図から前線地域だったため)や後北条氏関係の古文書が多く遺されている。また江戸時代には徳川家康から400石の寄進を受けている。最近では、アニメ「らき☆すた」の舞台になった関係で、近隣商店では絵やフィギュアの展示、関連商品の販売がされ、神社にもファンが描いた「らき☆すた」絵馬が多数奉納されている。

 

鷲宮神社催馬楽神楽』

 神社側の正式名称としては、土師一流催馬楽神楽。現存資料で最初に登場するのは鎌倉時代の『吾妻鏡』1251年の記事だが、その頃と現在とが同じ形態かは不明。戦国時代には衰退したが、江戸中期に大宮司藤原国久によって再興が試みられ、元は36座あったものが12座に再編された。

 神楽の保存会によれば、催馬楽を取り入れたのも藤原国久とのこと。催馬楽とは、平安時代に、民間の流行歌や民謡に貴族が雅楽風の旋律をつけ編曲したもので、室町から戦国時代にかけて廃れていったが、江戸時代に入り復興された。国久が取り入れた当時も文献として残っているのみだったとのこと。国久再編による神楽は少なくとも大正期まで伝えられていたようだが、現行では舞人の台詞がなく歌が独唱であること等、国久再編そのままではない。12座以外にも端神楽、番外、外の3つがある。

 江戸期には神楽を代々世襲で行う「神楽役」がおり、明治以降も世襲によって行われてきたが、昭和20年代には白石国蔵唯一人となった。昭和30年に神楽の笛のラジオ放送をきっかけに「神楽復興会」が組織され、白石氏が指導。復興会は現在「鷲宮催馬楽神楽保存会」となり、月2回無料で誰でも参加できる伝承教室を開いている。また昭和55年から地元鷲宮中学内に「郷土芸能クラブ」(現「郷土芸能部」)ができ、週一回の部活動で保存会による指導が行われている。ここから保存会に所属する人もいるとのこと。

 出雲流神楽に分類され、関東神楽の源流といわれており、江戸の里神楽の基礎を形成。神話を題材に「出端」「舞掛り」「引込み」の三部構成。現在では年7回祭礼に併せて奉納され、全12座行われるのは1月1日のみ。それ以外は演目、順番は定まっていない。

 

【レポート』

 訪問したのは7月31日夏越祭の日。途中昼休憩を挟んで11:00~15:00まで神楽の奉納があり、16:00~19:00頃まで場所を古利根川に移動して人形(ヒトガタ)流しが行われた。夏越祭は一般的に6月末だそうだが、この地域では田植え作業の関係で一月遅れで行われるようになったとのこと。

 この日奉納されたのは全十二座中、一、二、六、三、五、八の六つ。後半は間に地元小学4年生女子による端神楽が入った。保存会に所属し、昭和36年から56年神楽にたずさわっている男性が、神楽の概要や各演目の内容説明を挟みながら進行。他の演者は見た目20代から30代くらいの若い人が多かった。ほとんどが舞人と楽隊を兼任。

 神楽殿は本殿と対面の位置関係で、主に短い橋掛かりから出入りがあり、松の描かれた鏡板の前に楽隊がいるなど能舞台に近似。舞台前面には神酒や御幣で神棚がつくられ、舞の始めと終わりにはここに必ず挨拶をする。

 見物人は地元の年配者や舞人の家族友人など、多い時間でも数十人ほど。あとはカメラマンが神楽殿かぶりつきの位置に数名。

 舞全体にぎこちなさを感じた。多くは舞台上を四角く移動するのだが、特に若い舞人はふらつきそうになりながら歩いていた。比較的魅力的と感じた40代くらいの男性や年配の翁と比べてみると、まっすぐ立とうとしている為か重心が高く安定しないようだった。年配方の足裏が床を全体で捉えるよう/足裏全体が床に吸い付くようなのに対して、若い舞人は床に対する足裏の角度が大きいのもふらつく理由かもしれない。また、目がちらちらと動くことも、舞の説得力を失わせているように思えた。複数人で舞う際に相手と合わせるためだったり、見物人が近くにいるせいだったりするようだ。

 神楽の形式としては、神楽殿が本殿に正対していたり、必ず神棚に挨拶をしたりしているけれど、舞人の意識の方向は本殿や神棚に向いているようには見えなかった。佃島念仏踊りでは、踊りの振り付けや、全体の動線、場所、供養の目的を言葉として前面に出すことなど「枠」が成立を担保していると考えたけれど、今回見た催馬楽神楽では「枠」があって、保存されている形をやってはいるけれど、「奉納」に成っているとは思えなかった。神楽を舞う人々が専業ではないとか、五穀豊穣や厄払いの為に神楽を奉納するという必然性が現代人にとっては薄くなっているとか、理由はあるだろう。

 この神楽自体が幾度も変遷してきたように、こうした芸能は形式も含め求められる意味合いや機能も変わっていくものなんだろう。それが重要文化財として形を保存しなければならなくなると、その後の変化はどういったものになっていくのだろう。形が残ることが、現在では失われたり薄まったりした過去の身体性や感覚みたいなものに、アクセスし得る窓口になる面もあるのだろう。しかし、窓口としての機能と、現在において求められたり有効だったりする機能とはぴたりと一致するものではない。

 余談。

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 第五座 磐戸照開諸神大喜之段の翁の仮面について。人の生の表情に比べて、仮面の無機質さがやはりおもしろかったのだけれど。この翁の仮面、上唇と下唇のところでパーツが分かれていて、下顎部分は紐で繋いである為、舞の途中に時折パクパク口が動くのがなにか喋っているようで、仮面の無機質さに対して何か喋っているような感じが生物的に見えて、その瞬間はとてもおもしろかった。