民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

悪態まつり はぎわら


悪態まつり 茨城県笠間市 日本三大奇祭 - YouTube

茨城県笠間市岩間

2014年12月21日

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 常磐線は、携帯電話でがんがんに話しながら乗ってもいいし、ビールを飲んでつまみを食べ始めてもいい、ボックス席の向かい側に足を投げ出してもいいし、椅子をベッド代わりにして寝てもいい、高校生のカップルがトイレで性行為……(以下略)と、利根川を越えて茨城に入ると(具体的には取手〜藤代の電源切替を抜けると)、そこは無法地帯なのだ。多分。

 常磐線で上野から1時間30分、悪態まつりは岩間駅を最寄りとする愛宕神社で開催される。

 筑波山加波山などと共に、修験者の修行の地として古くから知られる愛宕山。標高は300m程度と小さな山だが、関東平野を一望できる眺望が魅力となっている。その山頂に愛宕神社がある。

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あらい祭(大根まつり) はぎわら

2014年12月14日

千葉県山武郡芝山町山田地区

 


あらい祭(大根まつり) 千葉県山武郡芝山町 - YouTube

 

 成田空港の建設問題について、ほとんど無知な僕でも、「三里塚闘争」の名前くらいは聞いたことがあるし、新左翼運動全盛の時代に農民たちと共闘し、空港建設に対して反対の声を上げたということくらいは知っている。激しい闘争が繰り広げられた成田の地で、空港反対派の人々は、いまだに運動を継続させており、滑走路の真下には神社や民家などが存在している。

 芝山町は、成田空港に隣接する自治体であり、5分おきに降下体制に入った飛行機を見ることができる。そんな芝山町の山田地区では、毎年12月14日に「大根まつり」が開催されているのだ。事前に得た情報によると、「神主に大根をぶつける」というこの祭り。いったい、どんな闘争が繰り広げられているのだろうか。

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三浦 面神楽 羽太

2014年11月9日(日) 16:30〜 神奈川県三浦市 海南神社 

 

横浜から車で約1時間、畑と海に囲まれた三浦半島の最南端に位置する 海南神社に向かう。

幼い頃、沢蟹の産卵を見に三浦に来たことを思い出す。 当時住んでいた大船の田舎からも、さらに遠く寂しい所だったと記憶している。

 

広々とした畑を通り過ぎてしばらく走ると三崎漁港に出た。

入り組んだ入り江に停泊する漁船と、灯台のサーチライトが漁師町の風情を醸し出している。 観光客向けらしい飲食店がポツリポツリとあるが 到着したのが既に17時を回っていたためか、歩いている人が全くいない。 ほとんどの店はシャッターを閉じていた。

まったくうら寂しい場所だ。

車から降りて、商店街を入っていくと、突き当たりにこぢんまりとした神社があった。 お囃子の音が聞こえてくるが、あまり人がいる気配が無い。

 

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筑前御殿神楽 清水


国譲り - YouTube

太刀舞 http://youtu.be/ALukqlGllGg

久米舞 http://youtu.be/i6We0AZPR8c

訪問:10月20日(月)19:00~@枝光八幡宮

 枝光駅から枝光本町へ向かい親しみの湧く商店街を通って、諏訪町の少し広い通りを緩く上がっていった先に、枝光八幡宮の鳥居と境内へ続く187段の階段が見える。現在の住所は北九州市八幡東区諏訪町。

 神社公式HPによれば、建久5年(1194)の下野(栃木)の宇都宮氏の鎮西の折、領内の守護神として宇都宮八幡大神を勧請し宮田山に祭祀したことが始まり。戦火によって社殿が焼失して後、寛永4年(1627)に現在の地に社殿が再建された。現在の社殿は大正7年に氏子の寄進によって建立されたもの。創建から800年以上の歴史を持つ。また八幡大神勧請以前から崇められてきた諏訪大神も合祀されている。「枝光」という名の由来は、記紀にも登場し遠賀一帯を領地としていた岡縣主熊(くま)鰐(わに)が、神功皇后新羅出兵の折、熊本山(現高炉台公園)で採った真榊の枝に鏡・剣・瓊(玉)の三つの宝を掛けて出迎えたことから、「枝光(枝三)」と称されるようになったといわれている。

 現在の「八幡」という地名は、明治22年(1889) 、ともに八幡神を祀っていた枝光村・尾倉村・大蔵村が合併したことから。

 

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筑前御殿神楽参考資料 清水

以下は、レポートを書くにあたって参考資料からまとめたものです。

 筑前神楽の中でも、旧遠賀郡の社家に伝わるものを筑前御殿神楽という。室町時代から500年以上の歴史を持つ。神職のみによって行われ、神前以外では舞われないのが特徴とされている。採り物を用いた「舞神楽」と神話を演じる「面神楽」とで構成され、湯立てが行われる場合もある。

【旧遠賀郡と波多野家】

 遠賀川流域は、縄文時代の推定図によると、かなり内陸の直方の辺りまで遠賀湾が広がっていた。明治30年代に八幡製鉄所ができ大規模な工業地帯として大きく変化するまでは、半農半漁の地域だったそうだ。今回訪問した枝光も、製鉄所ができる前は106戸ほどの規模の村だったという。史料によれば、江戸期には徳川による西国諸大名の統制、財力削減の影響で課税の負担も大きく、江戸期を通じて遠賀の人口は増えていない。また遠賀流域の洪水灌水、或いは旱水のため収穫が厳しく飢饉にも悩まされてきた。享保の飢饉では筑前国の四分の一にあたる10万余人の死者が出たという。

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江古田の獅子舞 清水

訪問:10月5日19:00~ 

【江古田の獅子舞】江古田獅子舞保存会発行パンフレットより

 約900年前、御嶽信仰のさかんだった時代に村の鎮守として創建された御嶽神社と、社僧として鎌倉時代に建立された東福寺とによって、鎌倉時代から江古田の獅子舞は始められた。御嶽神社は大正二年に氷川神社に合祀され、東福寺氷川神社別当となる。氷川神社が鎮守となってからは、獅子舞も氷川神社に属するようになるが、舞楽殿ができる前は東福寺境内にて行われていた。悪魔を降伏し災難を消除して氏子の幸福を祈祷するために伝授されたもので、昔悪疫が流行した際、村内各戸を巡り病魔を退治したことがあり「祈祷獅子」と称される。江戸時代には、東福寺は徳川将軍の鷹狩りの際の休息所であり、三代将軍家光も江古田の獅子舞を観ており、祭礼で行う獅子舞に「御用」と書いた提灯を掲げたのは破格の特権だった。東京都中野区無形民俗文化財

 

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