民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

レポート用原稿【種子取祭の感想】 萩原

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※民俗芸能調査クラブでは、年度末に冊子を制作します。

下記は、この冊子に掲載するための原稿です。

なお、この冊子は4月中旬頃からSTスポットおよび各所で配布されます。

 

 「種子取祭」を見て、ひとつの言葉を提示するなら、それは「矛盾」という言葉だ。

 360人の人口に対して、年間40万人が訪れる竹富島は、観光産業に依存している。しかし、同時に神の存在が息づく島であり、数々の御嶽が残され、僕が話を聞いた島民の大部分は神の存在を信じていた。観光というここ数十年で新たに興った産業を忘れ、「神」に対して向き合う祭りが種子取祭である。

 


 しかし、島民とて、そのように本質主義的「だけ」に生活を送るわけにはいかない。
 奉納芸能は、神に対して奉納されるという意味を持って行われる。しかし、その少なくない部分は、「観客」に対して行われているように見える。端的に指摘するなら、神に奉納するためにスピーカーは必要ないはずだろう。だからといって、拡声しなければ、舞台上の音は観客の隅々まで届かず、それを見ている人々はただイライラさせられるばかり。2000人とも言われる種子取祭りの観客に「も」、気を使う必要は少なからずある。
 もはや、島で農業を営んでいる家はほとんど存在せず、観光業こそが島の主産業となっている。単純に考えて、豊作を祝う種子取祭は形骸化するしかない。それでも、彼らが種子取祭を守りぬこうとするのは、それが神とのつながりであり、先祖とのつながりを持つからである。それを、少なくとも僕らが話を聞いた人々は認識していた。けれども、同時に観光客の対処の方法も考えなければならない。
 他の祭りを見ていても、例えば「五穀豊穣と厄除けと健康祈願と……」といった、意味が習合した祭りは少なくないし、神仏習合の例を待つまでもなく、厳密な意味や定義を見出さぬまま、人々は祭りを執り行ってきた。民俗芸能の研究者ならば、その姿にひどくイライラしそうものだが、僕はその矛盾した全体性の中から祭りを見てみたいと思う。無矛盾な人間の営為など存在しないように、無矛盾な祭りも存在しないのだ。
 こんなことを言うと、観光としての種子取祭の魅力は半減するかもしれない。僕らも、そこに、ある「純粋さ」が保存されているのではないかという期待のもとに、竹富島という場所を選択し、わざわざ10日間にわたる合宿を計画した。矛盾した、純粋じゃない祭りを見に行きたがるなんてよっぽどの物好きだ(祭りを見に行くというだけで物好きだというのに!)。
 けれども、この矛盾した状態を無視せず、かつ否定せずにこの祭りを見ていると、そこには同時代としての祭りが浮かび上がってくるのではないだろうか。観光業という極めて現代的な職業に従事しつつ、前近代的な神を信奉し、祭りを執行する姿は、矛盾に満ちている。それは、本質主義的にも適切ではないし、資本主義社会のあり方としても相応しくない。両者の板挟みになりながら、それぞれとは別の道を模索するという姿には心から共感し、祭りを行っている人々が、東京で舞台芸術を行っている僕らと同じ矛盾を抱えている人々であることを認識することができる。僕らも、資本と芸術の間で活動を行っているのだ。
 民俗芸能は、僕ら現代人の喪った純粋さを湛えたロマンティックな存在として受け入れられる。けれども、そんな観光客的な視点のロマンスを満たすなんて、それこそ部外者の視点の勝手な押し付けに過ぎないのではないだろうか。僕は、自分が2014年において作品を創作しているように、2014年において芸能を行っている姿から、芸能を観察することにこそより豊かな意義を見出せるのではないかと考える。その姿は、純粋なだけの美しさではない。