民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

あらい祭(大根まつり) はぎわら

2014年12月14日

千葉県山武郡芝山町山田地区

 


あらい祭(大根まつり) 千葉県山武郡芝山町 - YouTube

 

 成田空港の建設問題について、ほとんど無知な僕でも、「三里塚闘争」の名前くらいは聞いたことがあるし、新左翼運動全盛の時代に農民たちと共闘し、空港建設に対して反対の声を上げたということくらいは知っている。激しい闘争が繰り広げられた成田の地で、空港反対派の人々は、いまだに運動を継続させており、滑走路の真下には神社や民家などが存在している。

 芝山町は、成田空港に隣接する自治体であり、5分おきに降下体制に入った飛行機を見ることができる。そんな芝山町の山田地区では、毎年12月14日に「大根まつり」が開催されているのだ。事前に得た情報によると、「神主に大根をぶつける」というこの祭り。いったい、どんな闘争が繰り広げられているのだろうか。

 

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 2.2kmという日本一短い営業区間の「芝山鉄道」に乗り、芝山千代田駅へ。そこから、タクシーでおよそ15分。「山田集会所」には、地元の人々と、アマチュアカメラマンたちが集っていた。田舎の集落の、のんびりとした雰囲気。どうやら、火炎瓶を大根に持ち替えた過激派たちが集っているわけではないようだ。

 集会所の中をのぞき込むと、食事の準備中らしく、女性たちがせっせと何かを料理している。もともと、この日は火を使うことを禁じられており、神せん(神の食事)をいただくこととなっていた。ただし、今ではそんな掟を守っている人はまずいないという。そして、集会所の中には、ひときわ目を引く物体がある。お膳の上に載せられた大きな大根と株。しかも、大根は男根に、株は女陰に見立てられ、ご丁寧にクリトリスや人参でつくられた陰襞までつくられている。いきなりの登場に不意打ちを食らわされた。

 11時半になると、村人たちが集会所で食事を取り始める。黒豆、田作りなどのおせち料理に定番のメニューの他に、煮魚、厚揚げなどが御膳に載せられている。民宿の朝ごはんのような内容だ。男根と女陰を囲みながら食事をするというのはいったいどういう気分なのだろうか、と不思議に思う。すると、獅子舞が登場する。2人立ちの獅子舞で、踊りなどがあるわけでもなく、やる気は感じられない。何人かの頭をパクパクと噛んでおり、楽しんでいるのは子供だけ。最後に、男根大根にもパクリと食らいついた。フェラチオかよ。

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 と、観察していたら、見学している奴らも集会所に上がって飯を食え、ということ。朝から何も食べていなかった(しかも、周囲には全く食べる場所がない)のでご相伴に預かる。ああ、こんなに丁寧につくられたご飯を食べるのは久々だなあと、満足していると、男根大根がこちらを向いているのに気づき、少し気が滅入る。いくら模造品とはいえ、やはり食欲は減退する。なお、隣に座っていた地元民曰く「今年はよくできている」ということだ。確かに、モノへの愛情を感じられる丁寧さ。

 食べ終わり、しばし、だらだらと話をしながら神主を待つ。

 午後1時くらい、神主登場。まず、神主も新撰を食べ、次に当番交代の儀式。集落を5つの組にわけて、持ち回りでやっているということ。そして、この儀式が終わると、ついに大根投げが始まる。

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 集会所から裏山にある大宮神社に向けて出発する神主たち一行。しかし、その行く手を阻むかのように、輪切りにされた大根が投げつけられるのだ。この投げる役割を行うのは集落の子どもたち。やはり、子供の頃からこのように権力に対して抗うことを教えられていることが、成田闘争の土壌となったのだろうか……と思うのだけど、なんだか、あんまり盛り上がらない。神主を庇うように周囲にはゴザを持った男たちが取り囲んでいるんだけど、そのゴザをめがけて子どもたちは大根を投げているようだ。まあ、神主も80歳を超えているというし、本気で大根を投げられたら避けられないだろう。

 そして、神社についた我々の眼に飛び込んできたのは思わぬ光景だった。

 「燃えている……」

 無論、火炎瓶や爆弾テロの類ではない。茅萱でできた小屋に火が放たれ、真白な煙とともに、炎は数メートル上まで燃え上がっているのだ。その横を、神主たちは通り過ぎ、神社の本殿へと入っていく。ここで、今年15歳になった少年のために祝詞が奏上され、祭りは終了。なお、儀式が終わって外にでると、消防用のホースから水がかけられていた。なんでも、隣の杉の木に火が燃え移ってしまったそうだ。しかし、「毎年のこと」と、住民は涼しい顔をしていた。

 いったいなぜこんな祭りが出来上がってしまったのか?

 一説には、戦国時代から行われているというこの祭り。かつて、戦乱が絶えない土地だったらしく、合戦を模して大根が投げつけられ、小屋には火が放たれるようになった、と言われている。そこには、もしかしたら怒りの表現があったのかもしれない。芝山には5〜7世紀にかけての古墳群が存在しており、「はにわ博物館」なる施設も存在している。蝦夷の平定神である香取神宮は芝山からすぐ近くにある。「まつろわぬ民」による怒りを、連綿とつなげてきたのがこの祭だったとしたら、そして、その土壌が成田闘争へと受け継がれていったのだとしたら……と、誇大妄想も甚だしいけど、茅が上げる大きな火は何かそんな大きな物語を掻き立ててくれるような気がするのであった。