民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

御霊神社例大祭・面掛け行列 清水

9月18日12:00~16:00(12:00~例祭典、13:00~鎌倉神楽、14:40~面掛行列)

 

御霊神社鎌倉市坂ノ下(江ノ電長谷駅徒歩5分程)

 坂ノ下の地名は極楽寺坂(鎌倉切通しの一つ)の下に位置することから。神社から徒歩10分程行けば、由比ガ浜に連なる坂ノ下海岸に出る。平地と山地半々の半農半漁で栄えた地域だそうで、神社内には農業・航海に関わる境内社もある。正面鳥居の目の前を江ノ電が走っており、踏切を渡って境内へ入る珍しい感じ。鬱蒼と木が茂った崖を背負った境内は小さく、本殿の他、境内社や宝物庫、神輿を保管する蔵などがあるが、神楽殿はない。

 神社資料によれば、創立は平安時代後期の鎮座900年。元は関東平氏五家の始祖を祭っていたが後に鎌倉権五郎景政一柱のみになった。例大祭はこの景政の命日である9月18日に行われている。五家を祭ったことから御霊神社と呼ばれるようになったとの説があり、御霊信仰との関連は不明。景政の逸話に、眼に刺さった敵の矢を仲間が景政の顔を踏んで抜こうとした所、刀を抜いて仲間を切ろうとしその無礼を叱責したというものがあり、神社の紋は二つの矢羽根が並んだものとなっている。眼病平癒にも効き目があるとか。また明治時代には国木田独歩が境内の借家に一時期住んでいた。

 

 

 神社に到着したのは例祭典終了間際の12:40頃。踏み切りを渡り短い参道を経て階段を上ると、狭い本殿前には身動きできないほど人が集まっていた。坂ノ下地域の人や鎌倉近隣の人もいるが、カメラマンの多いこと。

 13時から奉納された鎌倉神楽は湯立神楽。本殿手前に6畳程の平台の敷かれた場所で行われる。舞台の上には山飾という五色の切り紙が天蓋のように飾られ、米、神酒、飴(最後にばら撒く)、神楽で使う鈴・弓矢・槍(を模したもの)・面(天狗と山神)・湯掻きの笹等が供えられた神棚が本殿向かって設けられている。舞台の外れた神棚の右前で湯が沸かされている。『神奈川県文化財図鑑』によれば、鶴岡八幡宮の神楽男(かぐらお:神楽奉仕神職)が近郷に伝え定着したものの一つとのこと。前段・中入り・後段の構成で、舞も演奏も神職によって行われる。演目の合間には若い神職によるMC風解説が入り、笑いを誘さそっていた。神職が行うことに意味があり、清め・祓いが中心の神楽だそう。元は800年前に京都石清水八幡宮から鶴岡八幡宮に伝わったもので、全12座あり現在すべてを行っているのは藤沢の2社と御霊神社のみとのこと。ずっと見ていたが、12座確認はできず。数え方が違うのかもしれない。

 確認できた演目は以下。表記は主に『神奈川県文化財図鑑』より。

羽能(または初能)・・・鈴と扇を持った一人舞。神前の米を四方に撒く。

御祓・・・2本の小幣(祓串)と神酒、鈴を用い、舞台と湯釜を清める一人舞。

御幣招・・・御幣と鈴を用いて四方拝。人ごみでよく見えず。

湯上げ(神主解説)…神前に湯を献じる。湯釜に浸けた笹を本殿内に持っていく。

《中入り》直会・・・神酒と赤飯が氏子総代等に振舞われる。神人共食。

※ここまでの前段は神主は神職の装束のままだが、以降は衣装替え、前段で招いた神と共に楽しむ趣旨。

大散供・・・鈴と扇を用いた連舞。羽能の2人バージョンで、扇に乗せた米を外へ向けて撒く。最難の舞らしい(神主談)。羽能にも共通する、左足を右足の脛に当てるステップが入る。

笹舞・・・笹と鈴を用いる連舞。湯釜につけた笹で交互に四方へ湯を撒く。

射祓

一人舞。天と地に矢を放つ仕草の後、実際に四方に矢を射る。神棚のある正面では射る音だけ鳴らし矢は放たない。その方向に悪しきものはいないからとのこと。矢のご利益を期待して手を伸ばす観客多し。

剣舞もどき

天狗と山神(黒面、鬘も付ける)の面を用いる。天狗が槍で四方を突いて邪を祓い、空中に九字真言(臨・兵・闘・射~)の最後の文字「前」を書く。細長い杓文字を持った山神が途中からうろつきだして、参列人の頭をしゃもじで叩いたり、ちぎった御幣を投げつけたり、笑いを誘う。最後に供えてあった飴を盛大にばら撒く。山神はふざけたような動きで、目の前の人に飴をあげると見せかけて後ろへ放り投げていた。元々の山神の性質なのかは定かではないが、昭和48年頃の記録でも、子どもに幣の紙片をはりつけるなどしていたらしい。

 

 神楽奉納の後、神輿行列前の神事を挟み、いよいよ面掛け行列が始まる。

 行列は参道を下った先、極楽寺方面の虚空蔵堂から星の井通り交差点までの間を往復し神社へ戻る。昭和の一時期には海岸まで行っていたらしいが、それ以前は極楽寺坂の下から長谷との境まで往復していたようだ。大人から小学生まで総勢100名程はいそうな大行列で、露祓いの陣笠、注連榊、鉾、天狗、太刀持ち、弓矢、烏帽子白張姿の白旗、先槍、獅子2頭、面掛衆、御刀、宝刀、浅沓、太鼓、囃子、礼人、神主、裃、神輿、天王唄などが並ぶ。獅子は頭の下に木枠がついていてそこに頭を入れる。鉾や白旗などの持ち物は小学生の担当らしい。近所の人が「大きくなったね」と声をかけたり、友達が手をふったり、ふざける男子を父兄がちゃんとやれと叱ったり。神輿は本来担いだそうだが、老朽化のため台車に載せて引いている。神社に出入りするときのみ担いでいるよう。

天王唄というのを、保存会の数名が声を合わせて唄っていたが、なぜいつ頃から行われているものなのかは判然としなかった。内容としては鎌倉地域の繁栄を歌っていて、由比ヶ浜以東の材木座から材木を運ぶ時に歌われたものと言われている。

 

 さて、この行列の特徴である面掛衆について。

 総勢10名で並びは決まっており、爺、鬼、異形(黒色)、長鼻、烏天狗(赤色)、翁、火吹男(青色)、福禄、阿亀(孕み女)、女(とりあげ)の順。正式名称はなく面の裏に並び順を示す「一の面」「二の面」等と書かれているのみだそう。前8人は青い着物に赤い袴、青系統の派手な袖なし羽織を着て、植物らしき図柄の頭巾を被っている。孕み女は白っぽい着物を着て黒い布を被り、お腹には詰め物がされ妊婦の姿。とりあげは白い着物の上に紫の羽織、手には孕み女を扇ぐ扇子、王冠のようなものを被っていて、唯一髪の毛が出ている。孕み女とセットの産婆のようだが、一説では巫女の姿とも。孕み女の安産の象徴でもあるそうで、行列の最中にもその腹を触りに来る妊婦さんがちらほらいた。因みに面掛衆は全員男性である。元々は被る家が決まっており今も幾つかの面では毎年同じ人物が被るそうだが、地元の人間であれば立候補できるそう。面掛衆は特に何をするでもなく、ただただ行列で歩くのみ。

 面掛け行列はいろいろ判然としていない。

 まず面。獅子頭と共に伎楽系のものといわれているが、史料によれば江戸中期(明和5年/1768年)の製作。坂ノ下の安斉家、邑田家らによって作られたもので、中世かそれ以前の伝統が江戸まで継承される中で土俗化していったのではないかという。孕み女やとりあげの「おかめ」や「火吹男」は田遊びにも登場し、また孕み女の姿から、豊年・豊漁祈願、予祝の象徴との見方もある。たしかに、面の名称は正式ではなく、「火吹男」呼ばれる面は、形はひょっとこだが、色だけみると伎楽面の呉公と同系色の青緑色なので、元々の伎楽面に日本の文化と混ざっていったのかもしれない。

 面は元々鶴岡八幡宮に奉納されており、御霊神社の面掛け行列は同八幡宮放生会で行われていた面掛け行列に倣ったものである。『吾妻鏡』に「鎌倉八幡宮の神子田楽常の如し」と田楽の盛行を伝える記述があり、そこで「烏天狗」面が使用されていた記録があるそうだ。鶴岡八幡宮源頼朝が京都石清水八幡宮由比ガ浜に勧請したのが始まり。wikiによると、鶴岡八幡宮放生会は、元は流鏑馬のみだったが石清水八幡宮に倣って雑色を呼び面掛け行列がはじまったらしい。

 鶴岡八幡宮での面掛け行列は明治維新後の祭式改変によって行えなくなり、御霊神社に移される。なぜ御霊神社に移されたのか事情は定かではないが、坂ノ下村の人々によって面が奉納されたためとの説がある。

 面掛け行列は、大正時代までは非人面行列と呼ばれていた。伝承では、頼朝が非人の娘を懐妊させてしまい、年に一度の無礼講を許したのが始まりといわれている。その娘が忍びで通う際、非人ゆえ顔を隠す目的で仮面をつけたとか。また行列の所以は、娘の警護に他の非人が付いていったからという。しかしあくまで俗説とのこと。

だが、非人と呼ばれる人たちとの関わりはあったように思える。

 非人・乞食・病人などの貧民救済を行っていた忍性は、極楽寺を拠点として坂ノ下地域を含めた鎌倉でも救済活動を行っていた。極楽寺絵図には「病宿」「癩宿」「施薬悲田院」「坂下馬病舎」といった施設が描かれており、現在よりも遥かに大規模な救済施設だったようだ。つまりそれだけ非人などと呼ばれる人々が多く居住していたと思われる。

 確証のある資料には当たれなかったが、他にも、由比ヶ浜近辺に鎌倉時代の刑場があったことや、鎌倉という地名の由来&由比氏と製鉄との関係、坂ノ下より西の稲村ケ崎周辺の有力者とされる長吏頭と芸能との関わり方など、詳しく調べたらいろいろ繋がってくるかもしれない。芸能者―非人―幕府(権力機構)などの関わりが具体的にどのようなものだったかとか。鎌倉も歩けば歴史にゴロゴロ当たる。

 

 たった一日の例大祭だが、3ヶ月ほどかけて準備するそうだ。沿道には地元の人や外部の見物人が犇いていたが、今年は平日だったため休日があたる年よりは人数は少ないそう。日にちが固定されている為、小学生は早退し大人は休みをとっての参加。平日開催だと休みがとれず参加できない人も当然ながらいるそうだ。大量の観光や来訪者が帰ったあと祭り終了後の直会はこじんまりとアットホームな雰囲気で行われていた。活気や祭りへの期待のような雰囲気はあまり感じなかったが、平日にあたっても毎年あれほど盛大な行列を行うのは、氏子や近隣住民にとってこの祭りがなにかしらではあるのだろう。運動会みたいな感覚の行事なのかもしれない。盛大な行列にしても祭り全体にしても、人は多かったがなんだかとても平熱な印象だった。