民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り はぎわら


すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り - YouTube

 

8月28日

 

 主に戦後に生み出され、神社仏閣と隔絶したチャラい祭りのことを「チャラ祭り」と名づけている。チャラ祭りは全国各地に存在する。たいていはイベント化し、集客に熱心で、人でごった返す。もちろん、テキ屋も欠かせない。

 けど、そんなチャラい祭りにも嫌々ながら目を向けていかなきゃならない。だって、日本で「祭り」と言えば、「チャラ祭り」がイメージされてしまうのだから。いったい、チャラ祭りに可能性はあるのだろうか? それとも、祭りではなくイベント、資本主義の奴隷と化した豚どもの醜怪な踊りでしかないのか!!!!????

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 というわけで、錦糸町のホテル街を歩きつつ、デリヘル嬢が送迎車からホテルへ出勤するなどをやや興奮しながら横目に辿り着いたのは、堅川親水公園。江東区墨田区の境目にあるこの場所で開催されているのが「第33回すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り」だ。19時頃に着いて、まず圧倒されるのがその熱気。高速道路の高架下で行われているのだが、肌寒い陽気だというのに、敷地いっぱいに膨れ上がった人びとからは熱気がこもっている。参加者は50mか100mか、正確にはよくわからないけど、細長い輪を作って飛んだり跳ねたりしている。

 だが、いったいどうして錦糸町で河内音頭なのか?

 まず河内音頭とは、文字通り河内国(現在の大阪府)で行われている民俗芸能。「土着の音頭・民謡、浄瑠璃、祭文といった庶民の芸能と仏教の声明が長い時間をかけて混ざり合い改良されて成立」(Wikipedia)というから歴史は古い。だが、河内音頭が存在感を示すのは明治近代化以降であり、昭和以降に全国に普及した。1960年台、鉄砲光三郎の『鉄砲節河内音頭シリーズ』が100万枚を超える大ヒット、また、その弟子も活躍し、河内家菊水丸などのスターも産む。三味線や太鼓といった楽器のみならず、エレキギターやキーボードなどを使ったサウンドは「現代河内音頭」と呼ばれ、現代人の身体にも乗りやすい。

 そんな時流を受けてか、1986年、錦糸町河内音頭大盆踊りが開始された。

 河内音頭という土着のものを、まるっきりゆかりもない錦糸町という街に輸入するというのは、かなり「チャラい」営為だ。けれども、よくよく考えれば、獅子舞だって、輸入が繰り返されて東アジア各地域に伝播していった。民俗芸能で重要な事は、オリジナルはどのようなものか? ではなく、「どのようにコピーするか」「コピーをどのように改編するか」といった視点ではないか。コピーだから魅力がないという話をしていたら、ほとんどの芸能が成り立たなくなってしまう。問題は、コピーの扱い方ではないだろうか。

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 会場ではそこここで募金が行われており、Tシャツの販売や、うちわも100円以上のカンパ制で行われている。いわゆる祭りとは異なり、文化祭的な手作り感を感じさせる。櫓は踊りの輪の中心にではなく、ステージとして再奥に位置している。ここでバンドが演奏し、その前にはバンドのオーディエンス、さらに後ろに踊りの輪という構成だ。

 踊りの外側と中心部では踊られている踊りはやや異なる。中心部は、手踊りのようなおとなしい振付も行われていたが、外縁部では、飛んだり跳ねたり腰を振ったり、なかなかに活気がいい。はじめは傍観していたんだけど、そのうちやっぱり輪に入ってみないと分からないと思い、参加してみる。クロークがあるので、荷物を預けられるのだ。

 なんだか、難しそうに見えた踊りも、よくよく見てみればツーエイトをひたすらに繰り返しているということがわかってくる。だが、踊り方にはかなり個人差がある。うまい人は、微妙なステップを取っているかのうように見えるけど、周囲にいた人に合わせて踊ると、ずいぶん印象が違う。どうもかなり動きが省略されているようだ。この曲難しいから、とりあえずルート音だけでいいんじゃないか? という中学生バントのベースのような気分。

 だから、みんな上手くはない。けれども、どこか祝祭的な雰囲気を感じるのはなぜだろう? 僕は最近、イベントと祭りを対比させて考えているんだけど、ここには「祭り」としての要素が非常に多い。

 フジロックには高校生の頃から大学生の頃までほとんど毎年通っていた。

 錦糸町河内音頭のノリはかなりフジロックに近い。その身体の所作は、ほとんど伝統とは隔絶されている。腰を落とす日本人の動き的なことはなく、飛んだり腰を振ったりと。そういえば、音楽に対するノリ方も8ビートなのだ。

 「祝祭性」について。

 フジロックも、祝祭性が高かった。どこか、彼らは音楽フェスに来ているわけではなく、フジロックに来ているんだという意識が強い(僕もそうだった)。彼らにとって、フジロックは、見に行く場所ではなく参加する場所であり、オーガナイザーの日高氏はいつか実現したいプランとして「出演者を全員シークレットにすること」を話していた。つまり、音楽をメインとするのではなく、フジロックという場所をメインとしてほしいというわけだ。

 「参加」というのは、ひどく難しい。ただ見に行くだけではここで言う「参加」することにはならない。一人一人がこのイベントを成立させるためにはどうしたらいいかを考え、時にはやりたくないこともしなきゃならないのがここで言う意味の「参加」つまり、コミットすることである。

 例えば、僕が行っていた当時は、フジロックは「世界一クリーンなフェスティバル」と言われていた。日本人の性格の良さということも大きな理由だが、そこには、「みんなできれいなフェスをつくろう」という意図が働いていた。ゴミを率先して拾って、ゴミ箱まで持っていくという姿も見られた。

 なぜ、彼ら(フジロッカーと呼ばれる)はそこまでフェスにコミットするのか? それが「楽しい」という意外にもいくつかの理由がある。まずひとつは、ロックフェスがまだ発展段階だったこと。まだ「ロックのお祭なんて……」という世間からの眼は厳しかった時代。一つの失点が、フェスそのものの生存に関わっていた。また、彼らが「神話」を共有していることも大きい。フジロックの第一回目、天神山での開催は、台風のため中止になった。悪天候の中、ほとんど雨具も持たない参加者と、何のフォローもできない運営側。日本で初めてのロックフェスは惨憺たる結果に終わったのだ。

 その神話があればこそ、フジロックの「成功」という目的に一丸となって、「参加」をすることができたのだ。そこには、ただのイベントには生まれないような共同体のようなものが確かに芽生えていたし、祝祭性があった。

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 錦糸町河内音頭は、3万人を動員する巨大なイベントでありながら、あくまでも手作りのフェスティバルだ。その手作り感による連帯(まったくしょうがねえなあという感覚)が祝祭性を生み出す大きな要因の一つであることは間違いない。

 でも、「手作り最高」みたいな結論は生理的にちょっと嫌だ。そこからもう一歩くらい前に進まないと面白くない。

 なぜ、参加者は、この河内音頭になら進んで参加するのだろうか? つまり、どうしてコミットをしてしまうのだろうか? 

 一つには、参加者の等質性がある。意外にも他の盆踊りのように老人比率が高くなく、若者、しかも音楽に理解のある(フェスやクラブに行ってそう)な人びとが多い。まるで、夏フェスの打ち上げをしているかのような雰囲気だ。それと、コミットすることとともに重要な事に、「コミットしなくていい」という自由さを持っている。あくまで観光客でいることができる。

 どういうことか。

 踊りには、普通、正確な型のようなものが存在する。けれども、その型を如何様にも改変可能なのが、この河内音頭の面白い所。基本はあるが、その先はご自由にという雰囲気は、グルーヴだけを共有し、めいめい好き勝手に踊っているクラブのような感覚に近い。それは、言い換えるなら観光客のような姿だ。熱心に修得するのではなく、いいとこ取りをして、自分の身体を改編することなく、好きなように踊る。それは、一見軽薄だ。けれども、その軽薄さが、心地いい距離感を有している。例えば、ここに振付家が定めた正しい振付なんかが入ってきたら興ざめしてしまうだろうし、巧者が指導するなら、反発したくなってくる。観光客的に軽薄でありつつ、村人的にコミットできる(をせざるを得ない)。そんな微妙なバランスが、錦糸町河内音頭を成立させているんじゃないだろうか。