民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

東京丸の内盆踊り2014 萩原


東京丸の内盆踊り2014 - YouTube

 

名称:東京丸の内盆踊り2014

開催日:2014年7月26日 15:00-18:00
調査者:萩原雄太

 

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 そもそも祭りがそんなに好きではないのである。

 「民俗芸能研究してて、祭によく行っています」というと、「祭り好きなの?」と尋ねられるが、断じて絶対に祭りは好きじゃない。だから、「東京丸の内盆踊り」と称して、開催される「祭り」ような「イベント」を、僕は蛇蝎の如くに嫌っている。なるべくなら関わりたくないし、足も運びたくないし、浴衣着て浮かれている人々は視界に入らない方がいい。僕が興味が有るのは祭りにおける祝祭性とかそこにいる人々の身体性とかなのだ。

 「東京丸の内盆踊り2014」こんなにもチャラいイベントがあるだろうか?

25日、26日と、2日間にわたって開催される件のイベントの2日目に参加した。

 丸の内は、三菱グループの本拠地である。だから、この祭りにも三菱地所が特別協賛をしており、主催は「大手町・丸の内・有楽町打ち水プロジェクト実行委員会」だ。もちろん、日本一のオフィス街に住人などいるわけがない(そもそも住宅がない)。つまり、ここにいる人々は全てどこかから集まってきた人々なのだ。

 好きでもない「祭りイベント」に参加したのは、口汚くディスりたいからじゃない。僕の観点には、イベント性や動員数などが欠落している。このイベントはどちらかと言うと、そのような部分に特化し、たまたま「盆踊り」というモチーフが選ばれただけだ。それを「偽物だ」とか「ちゃんとやれ」と言ってもなんにもならないのは承知している。ただ、彼らは、「盆踊り」というテーマを選んでしまったのだ。いったいなぜか? それは、「佃島の念仏踊り」とはどのように違うのだろうか? そして、住民が不在の街で、祭りは可能なのか? 可能であるとするなら、それはどのような形なのか? ちゃんとした理由はそれなりにあるのだ(ただ意地悪な目線で見物に行くほどヒマじゃない)。

 そもそも、多くの人にとって民俗芸能を育む「土地と結びついた地域コミュニティ」は半ばフィクションのようなものでしかない。東京や地方に住む多くの友人・知人は都市型の生活を行っており、土地に縛られているという感覚は薄い。今や、大半の人は、仕事をするために一日の大半を居住地域の外に出て暮らしているのだ。もしも、地域コミュニティを昔のままに復権しようとするならば、過去、ほとんどの人が、企業に雇用されていなかった時代に戻るしかなく(つまり自営業をさせるしかなく)、職業選択の自由も制限した方がいい。もちろん、そんなことはできない相談だ。だからこそ、「仕事場」としての土地に、もしかしたら「地域外コミュニティ」の萌芽を見いだせるんじゃないかという期待をぼんやりと持っていた。

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 会場についたのは17時少し前で、盆踊り自体は、15時〜開催されている。はたして30度を超える炎天下の中、盆踊りをやりたくなるものだろうか? と疑問に思ったが、そこは律儀な日本人らしく、ちゃんとやっていた。

 会場となったのは、丸ビル裏の「丸の内仲通り」通り。ロレックスやブルックス・ブラザーズといった高級ブランドが軒を連ねる通りだ。そんな通りを歩行者天国にし、道の真中には櫓が組み立てられており、その周囲には数十人が盆踊りを行っていた。

 櫓の上には太鼓が置かれているが、そこで叩いている人はいない。数十人は、テープの音に合わせながら、「東京音頭」や「炭坑節」、「オバQ音頭」、「千代田踊り」などの曲を踊っていた。だが、傍目から見てて、お世辞にも「盛り上がっている」とは言いがたい……。ご丁寧に、ちゃんとした格好のスタッフの人(多分バイトだろう)が、「飛び入り参加大歓迎」という札を掲げているが、どうも飛び入り参加したくなる雰囲気じゃないのだ。しばらく見ていても、参加をする人はほとんどいない。いったい、踊っている人たちは、誰なんだろう? 飛び入り参加なのか、それとも彼らもまたバイトなのか……。

 「撮影は黄色い線の中でお願いします」

 とスタッフの男性に注意される。確かに、歩行者にとって、見物人は邪魔な存在だし、祭りは邪魔な存在だろう。しかし、黄色い線の内側にしか効果を発揮しない祭りって祭りと言えるのだろうか? しばし考えこむ。

 踊りの方はといえば、淡々と、1曲踊り、また次の曲が流れ、また踊り……の繰り返し。よく聞いていると、どうやら数曲のレパートリーを延々とリピートしているようだ。うーん、やっぱり、これ楽しいんだろうか? と疑問に。見てる人が楽しくなくてもいいとは思うが、やっている人たちはせめて楽しくあってほしい。

 風向きが変わり始めたのは、太鼓の人が櫓の上に乗り、一般参加者と合わせて千代田区民謡連盟の人々が一緒に踊りだしてから。徐々に盛り上がりのようなものが生まれ始め、飛び入り参加をする人も出始めてきた。

 テープに合わせて、派手に打ち鳴らされる太鼓。手数も多いしバチを回したり、腕を伸ばして決めポーズをするちょっとしたサービスもしてくれる。民謡連盟の踊り手は、振付も覚えていて、お手本にはぴったりだ。だんだんと、盆踊りらしい盛り上がりや踊り手の楽しさに包まれる。けど、やっぱり僕はこれを好きになれない。そもそも、「勇壮に和太鼓を叩く人」の典型のような人々は、どこか胡散臭い。民謡連盟の人々の踊りは、たしかに上手いが、一つ一つの動作がしっかりはっきりし過ぎてて、あまり魅力的には感じられない。踊りというよりも、どこか体操とかマスゲームのように見えてくる。そして、他の参加者もそれにつられていく。なんだか、振付ばかりが前景化し、肝心の踊っている身体が一向に見えてこないのだ。

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 「テクニックばかりに走って、本質が失われている」というのは、ある種の芸術活動を否定する際の定型句になっているからあまり好きではないんだけど、それと似たような感覚を味わった。では、彼らはいったい何をしているのか?

 と思った時に、考えたのが、「ゲーム」だ。彼らは「与えられた振付を間違いなくこなす」という楽しさをしているのではないかと思えてくる。だから、丸の内盆踊りは、佃島念仏踊りに比較して、はるかに上手い。一つ一つの動作に、ダンスダンスレボリューションなら「COOL」とか「EXCELLENT」と表示されるような踊りなのだ。

 ダンスを踊るのは気持ちいし、ゲーム的に攻略していくのも快感だ。でも、これじゃ、ラジオ体操と変わらないのではないかという気がしないでもない。少なくとも、外部から「見る」価値も「参加する」価値も、僕には感じられなかった。

 彼らは、何を踊っていたのだろうか? あるいは、別の問いの建て方「彼らの間には、それぞれ何が流れていたのだろうか?」

 一曲一曲が終わるたびに、数秒のブランクがある。その時、踊り手たちはどこかいたたまれないような雰囲気に包まれる。そして、音楽がはじまると、また動き出していく。その曲間のぎこちなさがとても印象深かった。

 つまり、音楽が鳴っていないと、彼らはそこで踊っていることができないし、そもそもそこにいることもできない。音楽が、(もしくは「音頭」という物語が)彼らをかろうじてつなぎとめているのではないか。そして、音楽が鳴っている間、彼らは、「音頭」や「盆踊り」といった言葉の持つ物語(「日本人であること」「伝統」もしかしたら「エコ」なんかも)を使っているのではないか? 盆踊りの振付以上に、その「物語」を消費するという「振付」をひどく意識させられた。しかも、「日本」という仮想の枠組みを意識することは、他の民俗芸能では絶対にない。彼らにとって「日本人」ではなく、例えば「佃島」という場所性が先に立つ。だが、ここでは、東京音頭など昭和が生み出した音楽であるはずなのに、いつの間にか「日本の伝統的な音楽」と「それを踊る私」に編入されてしまうのだ。

 最後にちょっと面白い発見について。日本人はわりと簡単に盆踊りを踊れるのに対し、外人は一向に踊れない。まるで、体の中に盆踊りの回路が存在しないかのように先天的に、盆踊りを踊れない体になっているんじゃないかと思った。ただ、その身体と振付とのコンフリクトは、ギクシャクしていながらも、とても魅力的に感じた。