民俗芸能調査クラブ2014

民俗芸能調査クラブは、ダンサー、演出家、俳優、音楽家などのアーティストが、民俗芸能をリサーチし、自身の活動に結びつけるためのプロジェクトです

佃島念仏踊り 補記 清水

 7/13佃島念仏踊りの初日に参加した。

 去年参加した調査員のレポートや参加経験のある知人の話から、「供養」という目的を前面に出していることや、地元の人間ではなくても「一体感」「共有感」「浮遊感」といったものを感じたということに、興味をひかれた。排他的にならずに、複数の人々が供養という目的あるいは感覚を共有して踊るということが、いま本当にあるのだろうか?と思ったのだった。

 

 19:30頃までの明るい時間帯は浴衣姿の子どもたちが一列に円を描いて踊っていた。それを子ども達の保護者と共に眺めているときは、運動会の全校児童によるダンスに近い印象だった。傍から見ているだけでは、「供養」の感覚をもって踊っているようには見えなかった。無縁佛と書かれた精霊棚に焼香し黙って手を合わせている身体の方が、供養に向かっているように見えた。しかし、踊らされている/踊りを強要されているようにも見えず。友達に「踊ろうよ」と言って一緒に円に入っていく子どももいた。親や大人が見守っていることや、お菓子の引換券120円分がもらえることは、自主的に踊る大きな理由ではないと思う。

 20:00頃から生唄での大人の念仏踊りが始まる。

 右足と右手、左足と左手を一緒に出す簡単な振り付けを教わる。教えていた年配の男性は「わたしが教えるのはベースですから、あとはみなさん踊りながらそれぞれやってください」と言っていた。確かに、何年も参加しているらしい人々も、それぞれ微妙に腰の落とし方や、前傾の角度、手の動かし方、足の振り出し方が違っていた。

 少し踊ってから一旦外れて見てみると、周囲の踊れる人を見ながらぎこちなく動いている人も多く、踊りに参加している人数も圧迫感を受けるほどは多くなかったためか、「複数の人々が供養という目的あるいは感覚を共有して踊」っているようにはまだ見えなかった。おそらく私が、供養を目的とした集団の念仏踊りに、高い熱量やグルーヴ感をイメージしていたこともあるだろう。

 再び踊りの円に入り、今度は自分が魅力的だと感じた人の近くで、それを真似て踊ってみた。その年配の女性は、腰を落としやや前傾で少し顔を俯け、手を軽く握り、左右の手が入れ替わる際はまっすぐ下ろすのではなく、気持ち顔の前を手で覆うように弧を描いていた。その手の動きは、両手で見えないゴムを伸ばしたり戻したりしているように見えた(後から調査クラブのMTで聞いた話では、刀と鞘が関係しているらしい)。また、足を振り出すときは、一旦踵を後ろに軽く振ってからちょんっと前に出していた。

 上半身、特に顔の俯きと手の動きを真似てみると、「自我」から開放されるような感覚を得た。話に聞いていた「浮遊感」や「一体感」といったものはこれなのかもしれない。自分の内面的な思考や気持ちがなくなるわけではなく、それらが踊りや円全体の流れと切り離されるような感覚だった。何を考えていようが、参加のモチベーションがどうあろうが、踊りには関係なく、手足や腰は唄と全体の流れに沿って心地よく動いていた。

 また、合いの手の声(聞いた限り「ヤートセー ヨーイヤシャ コラショ」)を出す際にも似たような感覚があった。初めは日常会話時と同様の発声をしていたが、櫓からの生唄や踊りを真似た女性の声や踊り自体との調和が悪く感じ、音量と音域を上げてみた。顔を俯けていることもあってか、自分の声が後頭部を通って斜め45度の方に放り出されていくようだった。

 個人的には事前に精霊棚に手を合わせた際、墓参りや寺社で手を合わせるとき以上に、特殊な感覚や身体の変化はなかった。おそらく全員が全員、供養について強い意識があったわけではないだろうし、私のような人間が混じっていても、全体としては一つの念仏踊りとして成立していた。何が「成立」の基準になるか考える余地はあるが、佃島念仏踊りでは、私のような人間でも排除はされず(居づらさもなく)、また内面への強制や検閲もなく、集団の一人として踊ることができた。休憩を挟んで以降は、人数が増えたためか密度が増し、前半よりも一つの念仏踊りの塊として見えてきた。

 地域住民でなくても精霊棚に手を合わせれば参加できるようになったのが、はじめからなのか変化の結果なのかはわからないが、地域や生活や先祖などの共有がない、或いは薄い中でも、佃島念仏踊りとしてその成立を担保しているものは、幾つかの「枠」ではないだろうか。立地、精霊棚、踊りの振り、唄、櫓を中心に回る形態、供養を目的とする念仏踊りと強調して称すること。佃島念仏踊りでは、精霊棚という門さえ潜れば、これらの「枠」の中に何が入っても受容れているようにみえた。

 「枠」によって個人性が薄まり集団化されることによって、 個人の意思とは別のところで、現象としての念仏踊りになっているのではないだろうか。